[さを充《み》たすには足らぬ。思うに水盂《すいう》の中《うち》から、一滴の水を銀杓《ぎんしゃく》にて、蜘蛛《くも》の背に落したるを、貴《とうと》き墨に磨《す》り去るのだろう。それでなければ、名は硯でも、その実は純然たる文房用《ぶんぼうよう》の装飾品に過ぎぬ。
老人は涎《よだれ》の出そうな口をして云う。
「この肌合《はだあい》と、この眼《がん》を見て下さい」
なるほど見れば見るほどいい色だ。寒く潤沢《じゅんたく》を帯びたる肌の上に、はっと、一息懸《ひといきか》けたなら、直《ただ》ちに凝《こ》って、一朶《いちだ》の雲を起すだろうと思われる。ことに驚くべきは眼の色である。眼の色と云わんより、眼と地の相交《あいまじ》わる所が、次第に色を取り替えて、いつ取り替えたか、ほとんど吾眼《わがめ》の欺《あざむ》かれたるを見出し得ぬ事である。形容して見ると紫色の蒸羊羹《むしようかん》の奥に、隠元豆《いんげんまめ》を、透《す》いて見えるほどの深さに嵌《は》め込んだようなものである。眼と云えば一個二個でも大変に珍重される。九個と云ったら、ほとんど類《るい》はあるまい。しかもその九個が整然と同距離に按排《あ
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