ヘ、温泉として全く価値がないと思ってる。この理想以外に温泉についての注文はまるでない。
すぽりと浸《つ》かると、乳のあたりまで這入《はい》る。湯はどこから湧《わ》いて出るか知らぬが、常でも槽《ふね》の縁《ふち》を奇麗に越している。春の石は乾《かわ》くひまなく濡《ぬ》れて、あたたかに、踏む足の、心は穏《おだ》やかに嬉しい。降る雨は、夜の目を掠《かす》めて、ひそかに春を潤《うる》おすほどのしめやかさであるが、軒のしずくは、ようやく繁《しげ》く、ぽたり、ぽたりと耳に聞える。立て籠《こ》められた湯気は、床《ゆか》から天井を隈《くま》なく埋《うず》めて、隙間《すきま》さえあれば、節穴《ふしあな》の細きを厭《いと》わず洩《も》れ出《い》でんとする景色《けしき》である。
秋の霧は冷やかに、たなびく靄《もや》は長閑《のどか》に、夕餉炊《ゆうげた》く、人の煙は青く立って、大いなる空に、わがはかなき姿を托す。様々の憐《あわ》れはあるが、春の夜《よ》の温泉《でゆ》の曇りばかりは、浴《ゆあみ》するものの肌を、柔《やわ》らかにつつんで、古き世の男かと、われを疑わしむる。眼に写るものの見えぬほど、濃くまつわり
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