ネい。
彼は髪剃《かみそり》を揮《ふる》うに当って、毫《ごう》も文明の法則を解しておらん。頬にあたる時はがりりと音がした。揉《も》み上《あげ》の所ではぞきりと動脈が鳴った。顋《あご》のあたりに利刃《りじん》がひらめく時分にはごりごり、ごりごりと霜柱《しもばしら》を踏みつけるような怪しい声が出た。しかも本人は日本一の手腕を有する親方をもって自任している。
最後に彼は酔っ払っている。旦那えと云うたんびに妙な臭《にお》いがする。時々は異《い》な瓦斯《ガス》を余が鼻柱へ吹き掛ける。これではいつ何時《なんどき》、髪剃がどう間違って、どこへ飛んで行くか解らない。使う当人にさえ判然たる計画がない以上は、顔を貸した余に推察のできようはずがない。得心ずくで任せた顔だから、少しの怪我《けが》なら苦情は云わないつもりだが、急に気が変って咽喉笛《のどぶえ》でも掻《か》き切られては事だ。
「石鹸《しゃぼん》なんぞを、つけて、剃《す》るなあ、腕が生《なま》なんだが、旦那のは、髭が髭だから仕方があるめえ」と云いながら親方は裸石鹸を、裸のまま棚の上へ放《ほう》り出すと、石鹸は親方の命令に背《そむ》いて地面の上へ転《ころ》がり落ちた。
「旦那あ、あんまり見受けねえようだが、何ですかい、近頃来なすったのかい」
「二三日《にさんち》前来たばかりさ」
「へえ、どこにいるんですい」
「志保田《しほだ》に逗《とま》ってるよ」
「うん、あすこの御客さんですか。おおかたそんな事《こっ》たろうと思ってた。実あ、私《わっし》もあの隠居さんを頼《たよっ》て来たんですよ。――なにね、あの隠居が東京にいた時分、わっしが近所にいて、――それで知ってるのさ。いい人でさあ。ものの解ったね。去年|御新造《ごしんぞ》が死んじまって、今じゃ道具ばかり捻《ひね》くってるんだが――何でも素晴らしいものが、有るてえますよ。売ったらよっぽどな金目《かねめ》だろうって話さ」
「奇麗《きれい》な御嬢さんがいるじゃないか」
「あぶねえね」
「何が?」
「何がって。旦那の前《めえ》だが、あれで出返《でもど》りですぜ」
「そうかい」
「そうかいどころの騒《さわぎ》じゃねえんだね。全体なら出て来なくってもいいところをさ。――銀行が潰《つぶ》れて贅沢《ぜいたく》が出来ねえって、出ちまったんだから、義理が悪《わ》るいやね。隠居さんがああしているうちはいいが、もしもの事があった日にゃ、法返《ほうがえ》しがつかねえ訳《わけ》になりまさあ」
「そうかな」
「当《あた》り前《めえ》でさあ。本家の兄《あにき》たあ、仲がわるしさ」
「本家があるのかい」
「本家は岡の上にありまさあ。遊びに行って御覧なさい。景色のいい所ですよ」
「おい、もう一遍|石鹸《しゃぼん》をつけてくれないか。また痛くなって来た」
「よく痛くなる髭《ひげ》だね。髭が硬過《こわす》ぎるからだ。旦那の髭じゃ、三日に一度は是非|剃《そり》を当てなくっちゃ駄目ですぜ。わっしの剃で痛けりゃ、どこへ行ったって、我慢出来っこねえ」
「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」
「そんなに長く逗留《とうりゅう》する気なんですか。あぶねえ。およしなせえ。益もねえ事《こ》った。碌《ろく》でもねえものに引っかかって、どんな目に逢うか解りませんぜ」
「どうして」
「旦那あの娘は面《めん》はいいようだが、本当はき[#「き」に傍点]印《じる》しですぜ」
「なぜ」
「なぜって、旦那。村のものは、みんな気狂《きちげえ》だって云ってるんでさあ」
「そりゃ何かの間違だろう」
「だって、現《げん》に証拠があるんだから、御よしなせえ。けんのんだ」
「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」
「おかしな話しさね。まあゆっくり、煙草《たばこ》でも呑《の》んで御出《おいで》なせえ話すから。――頭あ洗いましょうか」
「頭はよそう」
「頭垢《ふけ》だけ落して置くかね」
親方は垢《あか》の溜《たま》った十本の爪を、遠慮なく、余が頭蓋骨《ずがいこつ》の上に並べて、断わりもなく、前後に猛烈なる運動を開始した。この爪が、黒髪の根を一本ごとに押し分けて、不毛の境《きょう》を巨人の熊手《くまで》が疾風の速度で通るごとくに往来する。余が頭に何十万本の髪の毛が生《は》えているか知らんが、ありとある毛がことごとく根こぎにされて、残る地面がべた一面に蚯蚓腫《めめずばれ》にふくれ上った上、余勢が地磐《じばん》を通して、骨から脳味噌《のうみそ》まで震盪《しんとう》を感じたくらい烈《はげ》しく、親方は余の頭を掻き廻わした。
「どうです、好い心持でしょう」
「非常な辣腕《らつわん》だ」
「え? こうやると誰でもさっぱりするからね」
「首が抜けそうだよ」
「そんなに倦怠《けったる》うがすかい。全く陽気の加減だね。どうも春てえ奴《や
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