]は余であるから、余は余の興味を以《もっ》て、一つ風流な土左衛門《どざえもん》をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。
湯のなかに浮いたまま、今度は土左衛門《どざえもん》の賛《さん》を作って見る。
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雨が降ったら濡《ぬ》れるだろう。
霜《しも》が下《お》りたら冷《つめ》たかろ。
土のしたでは暗かろう。
浮かば波の上、
沈まば波の底、
春の水なら苦はなかろ。
[#ここで字下げ終わり]
と口のうちで小声に誦《じゅ》しつつ漫然《まんぜん》と浮いていると、どこかで弾《ひ》く三味線の音《ね》が聞える。美術家だのにと云われると恐縮するが、実のところ、余がこの楽器における智識はすこぶる怪しいもので二が上がろうが、三が下がろうが、耳には余り影響を受けた試《ため》しがない。しかし、静かな春の夜に、雨さえ興を添える、山里の湯壺《ゆつぼ》の中で、魂《たましい》まで春の温泉《でゆ》に浮かしながら、遠くの三味を無責任に聞くのははなはだ嬉しい。遠いから何を唄《うた》って、何を弾いているか無論わからない。そこに何だか趣《おもむき》がある。音色《ねいろ》の落ちついているところから察すると、上方《かみがた》の検校《けんぎょう》さんの地唄《じうた》にでも聴かれそうな太棹《ふとざお》かとも思う。
小供の時分、門前に万屋《よろずや》と云う酒屋があって、そこに御倉《おくら》さんと云う娘がいた。この御倉さんが、静かな春の昼過ぎになると、必ず長唄の御浚《おさら》いをする。御浚が始まると、余は庭へ出る。茶畠の十坪余りを前に控《ひか》えて、三本の松が、客間の東側に並んでいる。この松は周《まわ》り一尺もある大きな樹で、面白い事に、三本寄って、始めて趣のある恰好《かっこう》を形つくっていた。小供心にこの松を見ると好い心持になる。松の下に黒くさびた鉄灯籠《かなどうろう》が名の知れぬ赤石の上に、いつ見ても、わからず屋の頑固爺《かたくなじじい》のようにかたく坐っている。余はこの灯籠を見詰めるのが大好きであった。灯籠の前後には、苔《こけ》深き地を抽《ぬ》いて、名も知らぬ春の草が、浮世の風を知らぬ顔に、独《ひと》り匂うて独り楽しんでいる。余はこの草のなかに、わずかに膝《ひざ》を容《い》るるの席を見出して、じっと、しゃがむのがこの時分の癖であった。この三本の松の下に、この灯籠を睨《にら》めて、この草の香《か》を臭《か》いで、そうして御倉さんの長唄を遠くから聞くのが、当時の日課であった。
御倉さんはもう赤い手絡《てがら》の時代さえ通り越して、だいぶんと世帯《しょたい》じみた顔を、帳場へ曝《さら》してるだろう。聟《むこ》とは折合《おりあい》がいいか知らん。燕《つばくろ》は年々帰って来て、泥《どろ》を啣《ふく》んだ嘴《くちばし》を、いそがしげに働かしているか知らん。燕と酒の香《か》とはどうしても想像から切り離せない。
三本の松はいまだに好《い》い恰好《かっこう》で残っているかしらん。鉄灯籠はもう壊れたに相違ない。春の草は、昔《むか》し、しゃがんだ人を覚えているだろうか。その時ですら、口もきかずに過ぎたものを、今に見知ろうはずがない。御倉《おくら》さんの旅の衣は鈴懸の[#「旅の衣は鈴懸の」に傍点]と云う、日《ひ》ごとの声もよも聞き覚えがあるとは云うまい。
三味《しゃみ》の音《ね》が思わぬパノラマを余の眼前《がんぜん》に展開するにつけ、余は床《ゆか》しい過去の面《ま》のあたりに立って、二十年の昔に住む、頑是《がんぜ》なき小僧と、成り済ましたとき、突然風呂場の戸がさらりと開《あ》いた。
誰か来たなと、身を浮かしたまま、視線だけを入口に注《そそ》ぐ。湯槽《ゆぶね》の縁《ふち》の最も入口から、隔《へだ》たりたるに頭を乗せているから、槽《ふね》に下《くだ》る段々は、間《あいだ》二丈を隔てて斜《なな》めに余が眼に入る。しかし見上げたる余の瞳にはまだ何物も映らぬ。しばらくは軒を遶《めぐ》る雨垂《あまだれ》の音のみが聞える。三味線はいつの間《ま》にかやんでいた。
やがて階段の上に何物かあらわれた。広い風呂場を照《てら》すものは、ただ一つの小さき釣《つ》り洋灯《ランプ》のみであるから、この隔りでは澄切った空気を控《ひか》えてさえ、確《しか》と物色《ぶっしょく》はむずかしい。まして立ち上がる湯気の、濃《こまや》かなる雨に抑《おさ》えられて、逃場《にげば》を失いたる今宵《こよい》の風呂に、立つを誰とはもとより定めにくい。一段を下り、二段を踏んで、まともに、照らす灯影《ほかげ》を浴びたる時でなくては、男とも女とも声は掛けられぬ。
黒いものが一歩を下へ移した。踏む石は天鵞※[#「毬」の「求」に代えて「戎」、第4水準2−78−11]《びろうど》のごとく柔《や
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