sこば》むものへの面当《つらあて》でもない。自《おのず》から来《きた》りて、自から去る、公平なる宇宙の意《こころ》である。掌《たなごころ》に顎《あご》を支《ささ》えたる余の心も、わが住む部屋のごとく空《むな》しければ、春風は招かぬに、遠慮もなく行き抜けるであろう。
 踏むは地と思えばこそ、裂けはせぬかとの気遣《きづかい》も起《おこ》る。戴《いただ》くは天と知る故に、稲妻《いなずま》の米噛《こめかみ》に震《ふる》う怖《おそれ》も出来る。人と争《あらそ》わねば一分《いちぶん》が立たぬと浮世が催促するから、火宅《かたく》の苦《く》は免かれぬ。東西のある乾坤《けんこん》に住んで、利害の綱を渡らねばならぬ身には、事実の恋は讎《あだ》である。目に見る富は土である。握る名と奪える誉《ほまれ》とは、小賢《こざ》かしき蜂《はち》が甘く醸《かも》すと見せて、針を棄《す》て去る蜜のごときものであろう。いわゆる楽《たのしみ》は物に着《ちゃく》するより起るが故《ゆえ》に、あらゆる苦しみを含む。ただ詩人と画客《がかく》なるものあって、飽《あ》くまでこの待対《たいたい》世界の精華を嚼《か》んで、徹骨徹髄《てっこつてつずい》の清きを知る。霞《かすみ》を餐《さん》し、露を嚥《の》み、紫《し》を品《ひん》し、紅《こう》を評《ひょう》して、死に至って悔いぬ。彼らの楽は物に着《ちゃく》するのではない。同化してその物になるのである。その物になり済ました時に、我を樹立すべき余地は茫々《ぼうぼう》たる大地を極《きわ》めても見出《みいだ》し得ぬ。自在《じざい》に泥団《でいだん》を放下《ほうげ》して、破笠裏《はりつり》に無限《むげん》の青嵐《せいらん》を盛《も》る。いたずらにこの境遇を拈出《ねんしゅつ》するのは、敢《あえ》て市井《しせい》の銅臭児《どうしゅうじ》の鬼嚇《きかく》して、好んで高く標置《ひょうち》するがためではない。ただ這裏《しゃり》の福音《ふくいん》を述べて、縁ある衆生《しゅじょう》を麾《さしまね》くのみである。有体《ありてい》に云えば詩境と云い、画界と云うも皆|人々具足《にんにんぐそく》の道である。春秋《しゅんじゅう》に指を折り尽して、白頭《はくとう》に呻吟《しんぎん》するの徒《と》といえども、一生を回顧して、閲歴の波動を順次に点検し来るとき、かつては微光の臭骸《しゅうがい》に洩《も》れて、吾《われ
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