慮なく四方へのして真中に黄色な珠《たま》を擁護している。菜の花に気をとられて、踏みつけたあとで、気の毒な事をしたと、振り向いて見ると、黄色な珠は依然として鋸のなかに鎮座《ちんざ》している。呑気《のんき》なものだ。また考えをつづける。
 詩人に憂《うれい》はつきものかも知れないが、あの雲雀《ひばり》を聞く心持になれば微塵《みじん》の苦《く》もない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍《おど》るばかりだ。蒲公英もその通り、桜も――桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物《けいぶつ》に接すれば、見るものも聞くものも面白い。面白いだけで別段の苦しみも起らぬ。起るとすれば足が草臥《くたび》れて、旨《うま》いものが食べられぬくらいの事だろう。
 しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一|幅《ぷく》の画《え》として観《み》、一|巻《かん》の詩として読むからである。画《が》であり詩である以上は地面《じめん》を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲《ひともう》けする了見《りょうけん》も起らぬ。ただこの景色が――腹の足《た》しにもならぬ、月給の補いにもならぬこの景色が景色としてのみ、余が心を楽ませつつあるから苦労も心配も伴《ともな》わぬのだろう。自然の力はここにおいて尊《たっ》とい。吾人の性情を瞬刻に陶冶《とうや》して醇乎《じゅんこ》として醇なる詩境に入らしむるのは自然である。
 恋はうつくしかろ、孝もうつくしかろ、忠君愛国も結構だろう。しかし自身がその局《きょく》に当れば利害の旋風《つむじ》に捲《ま》き込まれて、うつくしき事にも、結構な事にも、目は眩《くら》んでしまう。したがってどこに詩があるか自身には解《げ》しかねる。
 これがわかるためには、わかるだけの余裕のある第三者の地位に立たねばならぬ。三者の地位に立てばこそ芝居は観《み》て面白い。小説も見て面白い。芝居を見て面白い人も、小説を読んで面白い人も、自己の利害は棚《たな》へ上げている。見たり読んだりする間だけは詩人である。
 それすら、普通の芝居や小説では人情を免《まぬ》かれぬ。苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。見るものもいつかその中に同化して苦しんだり、怒ったり、騒いだり、泣いたりする。取柄《とりえ》は利慾が交《まじ》らぬと云う点に存《そん》するかも知れぬが、交らぬだけにその他の情緒
前へ 次へ
全109ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング