った。次には落ちる雲雀と、上《あが》る雲雀《ひばり》が十文字にすれ違うのかと思った。最後に、落ちる時も、上る時も、また十文字に擦《す》れ違うときにも元気よく鳴きつづけるだろうと思った。
春は眠くなる。猫は鼠を捕《と》る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂《たましい》の居所《いどころ》さえ忘れて正体なくなる。ただ菜の花を遠く望んだときに眼が醒《さ》める。雲雀の声を聞いたときに魂のありかが判然《はんぜん》する。雲雀の鳴くのは口で鳴くのではない、魂全体が鳴くのだ。魂の活動が声にあらわれたもののうちで、あれほど元気のあるものはない。ああ愉快だ。こう思って、こう愉快になるのが詩である。
たちまちシェレーの雲雀の詩を思い出して、口のうちで覚えたところだけ暗誦《あんしょう》して見たが、覚えているところは二三句しかなかった。その二三句のなかにこんなのがある。
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We look before and after
And pine for what is not:
Our sincerest laughter
With some pain is fraught;
Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.
[#ここで字下げ終わり]
「前をみては、後《しり》えを見ては、物欲《ものほ》しと、あこがるるかなわれ。腹からの、笑といえど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極《きわ》みの歌に、悲しさの、極みの想《おもい》、籠《こも》るとぞ知れ」
なるほどいくら詩人が幸福でも、あの雲雀のように思い切って、一心不乱に、前後を忘却して、わが喜びを歌う訳《わけ》には行くまい。西洋の詩は無論の事、支那の詩にも、よく万斛《ばんこく》の愁《うれい》などと云う字がある。詩人だから万斛で素人《しろうと》なら一|合《ごう》で済むかも知れぬ。して見ると詩人は常の人よりも苦労性で、凡骨《ぼんこつ》の倍以上に神経が鋭敏なのかも知れん。超俗の喜びもあろうが、無量の悲《かなしみ》も多かろう。そんならば詩人になるのも考え物だ。
しばらくは路が平《たいら》で、右は雑木山《ぞうきやま》、左は菜の花の見つづけである。足の下に時々|蒲公英《たんぽぽ》を踏みつける。鋸《のこぎり》のような葉が遠
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