ワ》に囀《さえ》ずる。
「あれが本当の歌です」と女が余に教えた。
五
「失礼ですが旦那《だんな》は、やっぱり東京ですか」
「東京と見えるかい」
「見えるかいって、一目《ひとめ》見りゃあ、――第一《だいち》言葉でわかりまさあ」
「東京はどこだか知れるかい」
「そうさね。東京は馬鹿に広いからね。――何でも下町《したまち》じゃねえようだ。山《やま》の手《て》だね。山の手は麹町《こうじまち》かね。え? それじゃ、小石川《こいしかわ》? でなければ牛込《うしごめ》か四谷《よつや》でしょう」
「まあそんな見当だろう。よく知ってるな」
「こう見《め》えて、私《わっち》も江戸っ子だからね」
「道理《どうれ》で生粋《いなせ》だと思ったよ」
「えへへへへ。からっきし、どうも、人間もこうなっちゃ、みじめですぜ」
「何でまたこんな田舎《いなか》へ流れ込んで来たのだい」
「ちげえねえ、旦那のおっしゃる通りだ。全く流れ込んだんだからね。すっかり食い詰めっちまって……」
「もとから髪結床《かみゆいどこ》の親方かね」
「親方じゃねえ、職人さ。え? 所かね。所は神田松永町《かんだまつながちょう》でさあ。なあに猫の額《ひたい》見たような小さな汚ねえ町でさあ。旦那なんか知らねえはずさ。あすこに竜閑橋《りゅうかんばし》てえ橋がありましょう。え? そいつも知らねえかね。竜閑橋ゃ、名代《なだい》な橋だがね」
「おい、もう少し、石鹸《しゃぼん》を塗《つ》けてくれないか、痛くって、いけない」
「痛うがすかい。私《わっち》ゃ癇性《かんしょう》でね、どうも、こうやって、逆剃《さかずり》をかけて、一本一本|髭《ひげ》の穴を掘らなくっちゃ、気が済まねえんだから、――なあに今時《いまどき》の職人なあ、剃《す》るんじゃねえ、撫《な》でるんだ。もう少しだ我慢おしなせえ」
「我慢は先《さっき》から、もうだいぶしたよ。御願だから、もう少し湯か石鹸をつけとくれ」
「我慢しきれねえかね。そんなに痛かあねえはずだが。全体《ぜんてい》、髭があんまり、延び過ぎてるんだ」
やけに頬の肉をつまみ上げた手を、残念そうに放した親方は、棚《たな》の上から、薄《うす》っ片《ぺら》な赤い石鹸を取り卸《お》ろして、水のなかにちょっと浸《ひた》したと思ったら、それなり余の顔をまんべんなく一応撫で廻わした。裸石鹸を顔へ塗りつけられた事はあ
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