狽アこから2字下げ]
Might I look on thee in death,
With bliss I would yield my breath.
[#ここで字下げ終わり]
と云う二句さえ、付け加えたかも知れぬ。幸い、普通ありふれた、恋とか愛とか云う境界《きょうがい》はすでに通り越して、そんな苦しみは感じたくても感じられない。しかし今の刹那《せつな》に起った出来事の詩趣はゆたかにこの五六行にあらわれている。余と銀杏返しの間柄《あいだがら》にこんな切《せつ》ない思《おもい》はないとしても、二人の今の関係を、この詩の中《うち》に適用《あてはめ》て見るのは面白い。あるいはこの詩の意味をわれらの身の上に引きつけて解釈しても愉快だ。二人の間には、ある因果《いんが》の細い糸で、この詩にあらわれた境遇の一部分が、事実となって、括《くく》りつけられている。因果もこのくらい糸が細いと苦《く》にはならぬ。その上、ただの糸ではない。空を横切る虹《にじ》の糸、野辺《のべ》に棚引《たなび》く霞《かすみ》の糸、露《つゆ》にかがやく蜘蛛《くも》の糸。切ろうとすれば、すぐ切れて、見ているうちは勝《すぐ》れてうつくしい。万一この糸が見る間に太くなって井戸縄《いどなわ》のようにかたくなったら? そんな危険はない。余は画工である。先はただの女とは違う。
突然襖があいた。寝返《ねがえ》りを打って入口を見ると、因果の相手のその銀杏返しが敷居の上に立って青磁《せいじ》の鉢《はち》を盆に乗せたまま佇《たたず》んでいる。
「また寝ていらっしゃるか、昨夕《ゆうべ》は御迷惑で御座んしたろう。何返《なんべん》も御邪魔をして、ほほほほ」と笑う。臆《おく》した景色《けしき》も、隠す景色も――恥ずる景色は無論ない。ただこちらが先《せん》を越されたのみである。
「今朝はありがとう」とまた礼を云った。考えると、丹前《たんぜん》の礼をこれで三|返《べん》云った。しかも、三返ながら、ただ難有う[#「難有う」に傍点]と云う三字である。
女は余が起き返ろうとする枕元へ、早くも坐って
「まあ寝ていらっしゃい。寝ていても話は出来ましょう」と、さも気作《きさく》に云う。余は全くだと考えたから、ひとまず腹這《はらばい》になって、両手で顎《あご》を支《ささ》え、しばし畳の上へ肘壺《ひじつぼ》の柱を立てる。
「御退屈だろうと思って、御茶
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