、この女の世界に統一がなかったのだろう。不幸に圧《お》しつけられながら、その不幸に打ち勝とうとしている顔だ。不仕合《ふしあわせ》な女に違ない。
「ありがとう」と繰り返しながら、ちょっと会釈《えしゃく》した。
「ほほほほ御部屋は掃除《そうじ》がしてあります。往《い》って御覧なさい。いずれ後《のち》ほど」
と云うや否《いな》や、ひらりと、腰をひねって、廊下を軽気《かろげ》に馳《か》けて行った。頭は銀杏返《いちょうがえし》に結《い》っている。白い襟《えり》がたぼの下から見える。帯の黒繻子《くろじゅす》は片側《かたかわ》だけだろう。

        四

 ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど奇麗《きれい》に掃除がしてある。ちょっと気がかりだから、念のため戸棚をあけて見る。下には小さな用箪笥《ようだんす》が見える。上から友禅《ゆうぜん》の扱帯《しごき》が半分|垂《た》れかかって、いるのは、誰か衣類でも取り出して急いで、出て行ったものと解釈が出来る。扱帯の上部はなまめかしい衣裳《いしょう》の間にかくれて先は見えない。片側には書物が少々詰めてある。一番上に白隠和尚《はくいんおしょう》の遠良天釜《おらてがま》と、伊勢物語《いせものがたり》の一巻が並んでる。昨夕《ゆうべ》のうつつは事実かも知れないと思った。
 何気《なにげ》なく座布団《ざぶとん》の上へ坐ると、唐木《からき》の机の上に例の写生帖が、鉛筆を挟《はさ》んだまま、大事そうにあけてある。夢中に書き流した句を、朝見たらどんな具合だろうと手に取る。
「海棠《かいだう》の露をふるふや物狂《ものぐるひ》」の下にだれだか「海棠の露をふるふや朝烏《あさがらす》」とかいたものがある。鉛筆だから、書体はしかと解《わか》らんが、女にしては硬過《かたす》ぎる、男にしては柔《やわら》か過ぎる。おやとまた吃驚《びっくり》する。次を見ると「花の影、女の影の朧《おぼろ》かな」の下に「花の影女の影を重《かさ》ねけり」とつけてある。「正一位《しやういちゐ》女に化けて朧月《おぼろづき》」の下には「御曹子《おんざうし》女に化けて朧月」とある。真似《まね》をしたつもりか、添削《てんさく》した気か、風流の交《まじ》わりか、馬鹿か、馬鹿にしたのか、余は思わず首を傾《かたむ》けた。
 後《のち》ほどと云ったから、今に飯《めし》の時にでも出て来るかも知れない。出て来たら様子
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