》き脈を通わせる。地を這《は》う煙の飛ばんとして飛び得ざるごとく、わが魂《たましい》の、わが殻《から》を離れんとして離るるに忍びざる態《てい》である。抜け出《い》でんとして逡巡《ためら》い、逡巡いては抜け出でんとし、果《は》ては魂と云う個体を、もぎどうに保《たも》ちかねて、氤※[#「气<慍のつくり」、第3水準1−86−48]《いんうん》たる瞑氛《めいふん》が散るともなしに四肢五体に纏綿《てんめん》して、依々《いい》たり恋々《れんれん》たる心持ちである。
余が寤寐《ごび》の境《さかい》にかく逍遥《しょうよう》していると、入口の唐紙《からかみ》がすうと開《あ》いた。あいた所へまぼろしのごとく女の影がふうと現われた。余は驚きもせぬ。恐れもせぬ。ただ心地《ここち》よく眺《なが》めている。眺めると云うてはちと言葉が強過ぎる。余が閉《と》じている瞼《まぶた》の裏《うち》に幻影《まぼろし》の女が断《ことわ》りもなく滑《すべ》り込んで来たのである。まぼろしはそろりそろりと部屋のなかに這入《はい》る。仙女《せんにょ》の波をわたるがごとく、畳の上には人らしい音も立たぬ。閉ずる眼《まなこ》のなかから見る世の中だから確《しか》とは解らぬが、色の白い、髪の濃い、襟足《えりあし》の長い女である。近頃はやる、ぼかした写真を灯影《ほかげ》にすかすような気がする。
まぼろしは戸棚《とだな》の前でとまる。戸棚があく。白い腕が袖《そで》をすべって暗闇《くらやみ》のなかにほのめいた。戸棚がまたしまる。畳の波がおのずから幻影を渡し返す。入口の唐紙がひとりでに閉《た》たる。余が眠りはしだいに濃《こま》やかになる。人に死して、まだ牛にも馬にも生れ変らない途中はこんなであろう。
いつまで人と馬の相中《あいなか》に寝ていたかわれは知らぬ。耳元にききっと女の笑い声がしたと思ったら眼がさめた。見れば夜の幕はとくに切り落されて、天下は隅《すみ》から隅まで明るい。うららかな春日《はるび》が丸窓の竹格子《たけごうし》を黒く染め抜いた様子を見ると、世の中に不思議と云うものの潜《ひそ》む余地はなさそうだ。神秘は十万億土《じゅうまんおくど》へ帰って、三途《さんず》の川《かわ》の向側《むこうがわ》へ渡ったのだろう。
浴衣《ゆかた》のまま、風呂場《ふろば》へ下りて、五分ばかり偶然と湯壺《ゆつぼ》のなかで顔を浮かしていた。洗う気
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