Zの中から出ていらっしゃい」
 余は唯々《いい》として木瓜の中から出て行く。
「まだ木瓜の中に御用があるんですか」
「もう無いんです。帰ろうかとも思うんです」
「それじゃごいっしょに参りましょうか」
「ええ」
 余は再び唯々として、木瓜の中に退《しりぞ》いて、帽子を被《かぶ》り、絵の道具を纏《まと》めて、那美さんといっしょにあるき出す。
「画を御描きになったの」
「やめました」
「ここへいらしって、まだ一枚も御描きなさらないじゃありませんか」
「ええ」
「でもせっかく画をかきにいらしって、ちっとも御かきなさらなくっちゃ、つまりませんわね」
「なにつまってるんです」
「おやそう。なぜ?」
「なぜでも、ちゃんとつまるんです。画なんぞ描《か》いたって、描かなくったって、つまるところは同《おんな》じ事でさあ」
「そりゃ洒落《しゃれ》なの、ホホホホ随分|呑気《のんき》ですねえ」
「こんな所へくるからには、呑気にでもしなくっちゃ、来た甲斐《かい》がないじゃありませんか」
「なあにどこにいても、呑気にしなくっちゃ、生きている甲斐はありませんよ。私なんぞは、今のようなところを人に見られても恥《はず》かしくも何とも思いません」
「思わんでもいいでしょう」
「そうですかね。あなたは今の男をいったい何だと御思いです」
「そうさな。どうもあまり、金持ちじゃありませんね」
「ホホホ善《よ》くあたりました。あなたは占《うらな》いの名人ですよ。あの男は、貧乏して、日本にいられないからって、私に御金を貰いに来たのです」
「へえ、どこから来たのです」
「城下《じょうか》から来ました」
「随分遠方から来たもんですね。それで、どこへ行くんですか」
「何でも満洲へ行くそうです」
「何しに行くんですか」
「何しに行くんですか。御金を拾いに行くんだか、死にに行くんだか、分りません」
 この時余は眼をあげて、ちょと女の顔を見た。今結んだ口元には、微《かす》かなる笑の影が消えかかりつつある。意味は解《げ》せぬ。
「あれは、わたくしの亭主です」
 迅雷《じんらい》を掩《おお》うに遑《いとま》あらず、女は突然として一太刀《ひとたち》浴びせかけた。余は全く不意撃《ふいうち》を喰《く》った。無論そんな事を聞く気はなし、女も、よもや、ここまで曝《さら》け出そうとは考えていなかった。
「どうです、驚ろいたでしょう」と女が云う
前へ 次へ
全109ページ中101ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング