》っている。雨はしだいに収まる。
 しばらくすると、奥の方から足音がして、煤《すす》けた障子がさらりと開《あ》く。なかから一人の婆さんが出る。
 どうせ誰か出るだろうとは思っていた。竈《へつい》に火は燃えている。菓子箱の上に銭が散らばっている。線香は呑気《のんき》に燻っている。どうせ出るにはきまっている。しかし自分の見世《みせ》を明《あ》け放しても苦にならないと見えるところが、少し都とは違っている。返事がないのに床几に腰をかけて、いつまでも待ってるのも少し二十世紀とは受け取れない。ここらが非人情で面白い。その上出て来た婆さんの顔が気に入った。
 二三年前|宝生《ほうしょう》の舞台で高砂《たかさご》を見た事がある。その時これはうつくしい活人画《かつじんが》だと思った。箒《ほうき》を担《かつ》いだ爺さんが橋懸《はしがか》りを五六歩来て、そろりと後向《うしろむき》になって、婆さんと向い合う。その向い合うた姿勢が今でも眼につく。余の席からは婆さんの顔がほとんど真《ま》むきに見えたから、ああうつくしいと思った時に、その表情はぴしゃりと心のカメラへ焼き付いてしまった。茶店の婆さんの顔はこの写真に血を通わしたほど似ている。
「御婆さん、ここをちょっと借りたよ」
「はい、これは、いっこう存じませんで」
「だいぶ降ったね」
「あいにくな御天気で、さぞ御困りで御座んしょ。おおおおだいぶお濡《ぬ》れなさった。今火を焚《た》いて乾《かわ》かして上げましょ」
「そこをもう少し燃《も》しつけてくれれば、あたりながら乾かすよ。どうも少し休んだら寒くなった」
「へえ、ただいま焚いて上げます。まあ御茶を一つ」
と立ち上がりながら、しっしっと二声《ふたこえ》で鶏《にわとり》を追い下《さ》げる。ここここと馳《か》け出した夫婦は、焦茶色《こげちゃいろ》の畳から、駄菓子箱の中を踏みつけて、往来へ飛び出す。雄の方が逃げるとき駄菓子の上へ糞《ふん》を垂《た》れた。
「まあ一つ」と婆さんはいつの間《ま》にか刳《く》り抜き盆の上に茶碗をのせて出す。茶の色の黒く焦《こ》げている底に、一筆《ひとふで》がきの梅の花が三輪|無雑作《むぞうさ》に焼き付けられている。
「御菓子を」と今度は鶏の踏みつけた胡麻《ごま》ねじと微塵棒《みじんぼう》を持ってくる。糞《ふん》はどこぞに着いておらぬかと眺《なが》めて見たが、それは箱のなかに
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