B小手板《こていた》を握る事は出来る。しかし画工にはなれない。こうやって、名も知らぬ山里へ来て、暮れんとする春色《しゅんしょく》のなかに五尺の痩躯《そうく》を埋《うず》めつくして、始めて、真の芸術家たるべき態度に吾身を置き得るのである。一たびこの境界《きょうがい》に入れば美の天下はわが有に帰する。尺素《せきそ》を染めず、寸※[#「糸+賺のつくり」、第3水準1−90−17]《すんけん》を塗らざるも、われは第一流の大画工である。技《ぎ》において、ミケルアンゼロに及ばず、巧《たく》みなる事ラフハエルに譲る事ありとも、芸術家たるの人格において、古今の大家と歩武《ほぶ》を斉《ひとし》ゅうして、毫《ごう》も遜《ゆず》るところを見出し得ない。余はこの温泉場へ来てから、まだ一枚の画《え》もかかない。絵の具箱は酔興《すいきょう》に、担《かつ》いできたかの感さえある。人はあれでも画家かと嗤《わら》うかもしれぬ。いくら嗤われても、今の余は真の画家である。立派な画家である。こう云う境《きょう》を得たものが、名画をかくとは限らん。しかし名画をかき得る人は必ずこの境を知らねばならん。
朝飯《あさめし》をすまして、一本の敷島《しきしま》をゆたかに吹かしたるときの余の観想は以上のごとくである。日は霞《かすみ》を離れて高く上《のぼ》っている。障子《しょうじ》をあけて、後《うし》ろの山を眺《なが》めたら、蒼《あお》い樹《き》が非常にすき通って、例になく鮮《あざ》やかに見えた。
余は常に空気と、物象と、彩色の関係を宇宙《よのなか》でもっとも興味ある研究の一と考えている。色を主にして空気を出すか、物を主にして、空気をかくか。または空気を主にしてそのうちに色と物とを織り出すか。画は少しの気合《きあい》一つでいろいろな調子が出る。この調子は画家自身の嗜好《しこう》で異なってくる。それは無論であるが、時と場所とで、自《おの》ずから制限されるのもまた当前《とうぜん》である。英国人のかいた山水《さんすい》に明るいものは一つもない。明るい画が嫌《きらい》なのかも知れぬが、よし好きであっても、あの空気では、どうする事も出来ない。同じ英人でもグーダルなどは色の調子がまるで違う。違うはずである。彼は英人でありながら、かつて英国の景色《けいしょく》をかいた事がない。彼の画題は彼の郷土にはない。彼の本国に比すると、空気の透
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