「でかい」
「おられる。何しにござった」
「温泉にいる画工《えかき》が来たと、取次《とりつい》でおくれ」
「画工さんか。それじゃ御上《おあが》り」
「断わらないでもいいのかい」
「よろしかろ」
 余は下駄を脱いで上がる。
「行儀がわるい画工さんじゃな」
「なぜ」
「下駄を、よう御揃《おそろ》えなさい。そらここを御覧」と紙燭を差しつける。黒い柱の真中に、土間から五尺ばかりの高さを見計《みはから》って、半紙を四つ切りにした上へ、何か認《したた》めてある。
「そおら。読めたろ。脚下《きゃっか》を見よ、と書いてあるが」
「なるほど」と余は自分の下駄を丁寧に揃える。
 和尚の室《へや》は廊下を鍵《かぎ》の手《て》に曲《まが》って、本堂の横手にある。障子《しょうじ》を恭《うやうや》しくあけて、恭しく敷居越しにつくばった了念が、
「あのう、志保田《しほだ》から、画工さんが来られました」と云う。はなはだ恐縮の体《てい》である。余はちょっとおかしくなった。
「そうか、これへ」
 余は了念と入れ代る。室がすこぶる狭い。中に囲炉裏《いろり》を切って、鉄瓶《てつびん》が鳴る。和尚は向側に書見《しょけん》をしていた。
「さあこれへ」と眼鏡《めがね》をはずして、書物を傍《かたわら》へおしやる。
「了念。りょううねええん」
「ははははい」
「座布団《ざぶとん》を上げんか」
「はははははい」と了念は遠くで、長い返事をする。
「よう、来られた。さぞ退屈だろ」
「あまり月がいいから、ぶらぶら来ました」
「いい月じゃな」と障子をあける。飛び石が二つ、松一本のほかには何もない、平庭《ひらにわ》の向うは、すぐ懸崖《けんがい》と見えて、眼の下に朧夜《おぼろよ》の海がたちまちに開ける。急に気が大きくなったような心持である。漁火《いさりび》がここ、かしこに、ちらついて、遥かの末は空に入って、星に化《ば》けるつもりだろう。
「これはいい景色。和尚《おしょう》さん、障子をしめているのはもったいないじゃありませんか」
「そうよ。しかし毎晩見ているからな」
「何晩《いくばん》見てもいいですよ、この景色は。私なら寝ずに見ています」
「ハハハハ。もっともあなたは画工《えかき》だから、わしとは少し違うて」
「和尚さんだって、うつくしいと思ってるうちは画工でさあ」
「なるほどそれもそうじゃろ。わしも達磨《だるま》の画《え》ぐらい
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