ニ岩佐又兵衛《いわさまたべえ》のかいた、鬼《おに》の念仏《ねんぶつ》が、念仏をやめて、踊りを踊っている姿である。本堂の端《はじ》から端まで、一列に行儀よく並んで躍《おど》っている。その影がまた本堂の端から端まで一列に行儀よく並んで躍っている。朧夜《おぼろよ》にそそのかされて、鉦《かね》も撞木《しゅもく》も、奉加帳《ほうがちょう》も打ちすてて、誘《さそ》い合《あわ》せるや否やこの山寺《やまでら》へ踊りに来たのだろう。
近寄って見ると大きな覇王樹《さぼてん》である。高さは七八尺もあろう、糸瓜《へちま》ほどな青い黄瓜《きゅうり》を、杓子《しゃもじ》のように圧《お》しひしゃげて、柄《え》の方を下に、上へ上へと継《つ》ぎ合《あわ》せたように見える。あの杓子がいくつ継《つな》がったら、おしまいになるのか分らない。今夜のうちにも廂《ひさし》を突き破って、屋根瓦の上まで出そうだ。あの杓子が出来る時には、何でも不意に、どこからか出て来て、ぴしゃりと飛びつくに違いない。古い杓子が新しい小杓子を生んで、その小杓子が長い年月のうちにだんだん大きくなるようには思われない。杓子と杓子の連続がいかにも突飛《とっぴ》である。こんな滑稽《こっけい》な樹《き》はたんとあるまい。しかも澄ましたものだ。いかなるこれ仏《ぶつ》と問われて、庭前《ていぜん》の柏樹子《はくじゅし》と答えた僧があるよしだが、もし同様の問に接した場合には、余は一も二もなく、月下《げっか》の覇王樹《はおうじゅ》と応《こた》えるであろう。
少時《しょうじ》、晁補之《ちょうほし》と云う人の記行文を読んで、いまだに暗誦《あんしょう》している句がある。「時に九月天高く露清く、山|空《むな》しく、月|明《あきら》かに、仰いで星斗《せいと》を視《み》れば皆《みな》光大《ひかりだい》、たまたま人の上にあるがごとし、窓間《そうかん》の竹《たけ》数十|竿《かん》、相|摩戞《まかつ》して声|切々《せつせつ》やまず。竹間《ちくかん》の梅棕《ばいそう》森然《しんぜん》として鬼魅《きび》の離立笑※[#「髟/丐」、第4水準2−93−21]《りりつしょうひん》の状《じょう》のごとし。二三子|相顧《あいかえり》み、魄《はく》動いて寝《いぬ》るを得ず。遅明《ちめい》皆去る」とまた口の内で繰り返して見て、思わず笑った。この覇王樹《さぼてん》も時と場合によれば、余の魄
前へ
次へ
全109ページ中86ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング