A軽快な感じはない。ことにこの椿は岩角《いわかど》を、奥へ二三間|遠退《とおの》いて、花がなければ、何があるか気のつかない所に森閑《しんかん》として、かたまっている。その花が! 一日|勘定《かんじょう》しても無論勘定し切れぬほど多い。しかし眼がつけば是非勘定したくなるほど鮮《あざや》かである。ただ鮮かと云うばかりで、いっこう陽気な感じがない。ぱっと燃え立つようで、思わず、気を奪《と》られた、後《あと》は何だか凄《すご》くなる。あれほど人を欺《だま》す花はない。余は深山椿《みやまつばき》を見るたびにいつでも妖女《ようじょ》の姿を連想する。黒い眼で人を釣り寄せて、しらぬ間に、嫣然《えんぜん》たる毒を血管に吹く。欺《あざむ》かれたと悟《さと》った頃はすでに遅い。向う側の椿が眼に入《い》った時、余は、ええ、見なければよかったと思った。あの花の色はただの赤ではない。眼を醒《さま》すほどの派出《はで》やかさの奥に、言うに言われぬ沈んだ調子を持っている。悄然《しょうぜん》として萎《しお》れる雨中《うちゅう》の梨花《りか》には、ただ憐れな感じがする。冷やかに艶《えん》なる月下《げっか》の海棠《かいどう》には、ただ愛らしい気持ちがする。椿の沈んでいるのは全く違う。黒ずんだ、毒気のある、恐ろし味《み》を帯びた調子である。この調子を底に持って、上部《うわべ》はどこまでも派出に装《よそお》っている。しかも人に媚《こ》ぶる態《さま》もなければ、ことさらに人を招く様子も見えぬ。ぱっと咲き、ぽたりと落ち、ぽたりと落ち、ぱっと咲いて、幾百年の星霜《せいそう》を、人目にかからぬ山陰に落ちつき払って暮らしている。ただ一眼《ひとめ》見たが最後! 見た人は彼女の魔力から金輪際《こんりんざい》、免《のが》るる事は出来ない。あの色はただの赤ではない。屠《ほふ》られたる囚人《しゅうじん》の血が、自《おの》ずから人の眼を惹《ひ》いて、自から人の心を不快にするごとく一種異様な赤である。
見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩《くず》れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練《みれん》のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああや
前へ
次へ
全109ページ中78ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング