痰うが」
「いつか御邪魔に上《あが》ってもいいですか」
「ああいいとも、いつでもいる。ここの御嬢さんも、よう、来られる。――御嬢さんと云えば今日は御那美《おなみ》さんが見えんようだが――どうかされたかな、隠居さん」
「どこぞへ出ましたかな、久一《きゅういち》、御前の方へ行きはせんかな」
「いいや、見えません」
「また独《ひと》り散歩かな、ハハハハ。御那美さんはなかなか足が強い。この間《あいだ》法用で礪並《となみ》まで行ったら、姿見橋《すがたみばし》の所で――どうも、善く似とると思ったら、御那美さんよ。尻を端折《はしょ》って、草履《ぞうり》を穿《は》いて、和尚《おしょう》さん、何をぐずぐず、どこへ行きなさると、いきなり、驚ろかされたて、ハハハハ。御前はそんな形姿《なり》で地体《じたい》どこへ、行ったのぞいと聴くと、今|芹摘《せりつ》みに行った戻りじゃ、和尚さん少しやろうかと云うて、いきなりわしの袂《たもと》へ泥《どろ》だらけの芹を押し込んで、ハハハハハ」
「どうも、……」と老人は苦笑《にがわら》いをしたが、急に立って「実はこれを御覧に入れるつもりで」と話をまた道具の方へそらした。
 老人が紫檀《したん》の書架から、恭《うやうや》しく取り下《おろ》した紋緞子《もんどんす》の古い袋は、何だか重そうなものである。
「和尚さん、あなたには、御目に懸《か》けた事があったかな」
「なんじゃ、一体」
「硯《すずり》よ」
「へえ、どんな硯かい」
「山陽《さんよう》の愛蔵したと云う……」
「いいえ、そりゃまだ見ん」
「春水《しゅんすい》の替え蓋《ぶた》がついて……」
「そりゃ、まだのようだ。どれどれ」
 老人は大事そうに緞子の袋の口を解くと、小豆色《あずきいろ》の四角な石が、ちらりと角《かど》を見せる。
「いい色合《いろあい》じゃのう。端渓《たんけい》かい」
「端渓で※[#「句+鳥」、第3水準1−94−56]※[#「谷+鳥」、第3水準1−94−60]眼《くよくがん》が九《ここの》つある」
「九つ?」と和尚|大《おおい》に感じた様子である。
「これが春水の替え蓋」と老人は綸子《りんず》で張った薄い蓋を見せる。上に春水の字で七言絶句《しちごんぜっく》が書いてある。
「なるほど。春水はようかく。ようかくが、書《しょ》は杏坪《きょうへい》の方が上手《じょうず》じゃて」
「やはり杏坪の方がいい
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