ゥかと》につく頃、平《ひら》たき足が、すべての葛藤《かっとう》を、二枚の蹠《あしのうら》に安々と始末する。世の中にこれほど錯雑《さくざつ》した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔《やわ》らかで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛《れいふん》のなかに髣髴《ほうふつ》として、十分《じゅうぶん》の美を奥床《おくゆか》しくもほのめかしているに過ぎぬ。片鱗《へんりん》を溌墨淋漓《はつぼくりんり》の間《あいだ》に点じて、※[#「虫+礼のつくり」、第3水準1−91−50]竜《きゅうりょう》の怪《かい》を、楮毫《ちょごう》のほかに想像せしむるがごとく、芸術的に観じて申し分のない、空気と、あたたかみと、冥※[#「しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]《めいばく》なる調子とを具《そな》えている。六々三十六|鱗《りん》を丁寧に描きたる竜《りゅう》の、滑稽《こっけい》に落つるが事実ならば、赤裸々《せきらら》の肉を浄洒々《じょうしゃしゃ》に眺めぬうちに神往の余韻《よいん》はある。余はこの輪廓の眼に落ちた時、桂《かつら》の都《みやこ》を逃れた月界《げっかい》の嫦娥《じょうが》が、彩虹《にじ》の追手《おって》に取り囲まれて、しばらく躊躇《ちゅうちょ》する姿と眺《なが》めた。
輪廓は次第に白く浮きあがる。今一歩を踏み出せば、せっかくの嫦娥《じょうが》が、あわれ、俗界に堕落するよと思う刹那《せつな》に、緑の髪は、波を切る霊亀《れいき》の尾のごとくに風を起して、莽《ぼう》と靡《なび》いた。渦捲《うずま》く煙りを劈《つんざ》いて、白い姿は階段を飛び上がる。ホホホホと鋭どく笑う女の声が、廊下に響いて、静かなる風呂場を次第に向《むこう》へ遠退《とおの》く。余はがぶりと湯を呑《の》んだまま槽《ふね》の中に突立《つった》つ。驚いた波が、胸へあたる。縁《ふち》を越す湯泉《ゆ》の音がさあさあと鳴る。
八
御茶の御馳走《ごちそう》になる。相客《あいきゃく》は僧一人、観海寺《かんかいじ》の和尚《おしょう》で名は大徹《だいてつ》と云うそうだ。俗《ぞく》一人、二十四五の若い男である。
老人の部屋は、余が室《しつ》の廊下を右
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