人生
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)空《くう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)千百万人|亦《また》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「迚−中」、第4水準2−89−74]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)各《おの/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 空《くう》を劃《くわく》して居る之《これ》を物といひ、時に沿うて起る之を事といふ、事物を離れて心なく、心を離れて事物なし、故に事物の変遷推移を名づけて人生といふ、猶《なほ》麕身《きんしん》牛尾《ぎうび》馬蹄《ばてい》のものを捉へて麟《きりん》といふが如し、かく定義を下せば、頗《すこぶ》る六つかしけれど、是を平仮名《ひらがな》にて翻訳すれば、先づ地震、雷、火事、爺《おやぢ》の怖きを悟り、砂糖と塩の区別を知り、恋の重荷義理の柵《しがらみ》抔《など》いふ意味を合点《がてん》し、順逆の二境を踏み、禍福の二門をくゞるの謂《いひ》に過ぎず、但《たゞ》其謂に過ぎずと観ずれば、遭逢《さうほう》百端《ひやくたん》千差万別、十人に十人の生活あり、百人に百人の生活あり、千百万人|亦《また》各《おの/\》千百万人の生涯を有す、故に無事なるものは午砲を聞きて昼飯を食ひ、忙しきものは孔席《こうせき》暖《あたゝ》かならず、墨突《ぼくとつ》黔《けん》せずとも云ひ、変化の多きは塞翁《さいをう》の馬に※[#「迚−中」、第4水準2−89−74]《しんにう》をかけたるが如く、不平なるは放たれて沢畔《たくはん》に吟じ、壮烈なるは匕首《ひしゅ》を懐《ふところ》にして不測の秦《しん》に入り、頑固なるは首陽山の薇《わらび》に余命を繋《つな》ぎ、世を茶にしたるは竹林に髯《ひげ》を拈《ひね》り、図太《づぶと》きは南禅寺の山門に昼寝して王法を懼《おそ》れず、一々数へ来れば日も亦足らず、中々錯雑なものなり、加之《のみならず》個人の一行一為、各其|由《よ》る所を異にし、其及ぼす所を同じうせず、人を殺すは一なれども、毒を盛るは刃《やいば》を加ふると等しからず、故意なるは不慮の出来事と云ふを得ず、時には間接ともなり、或は又直接ともなる、之を分類するだに相応の手数はかゝるべし、況《ま》して国に言語の相違あり、人に上下の区別ありて、同一の事物も種々の記号を有して、吾人《ごじん》の面目を燎爛《れうらん》せんとするこそ益《ます/\》面倒なれ、比較するだに畏《かしこ》けれど、万乗には之を崩御《ほうぎよ》といひ、匹夫《ひつぷ》には之を「クタバル」といひ、鳥には落ちるといひ、魚には上がるといひて、而《しか》も死は即《すなは》ち一なるが如し、若《も》し人生をとつて銖分縷析《しゆぶんるせき》するを得ば、天上の星と磯《いそ》の真砂《まさご》の数も容易に計算し得べし
 小説は此錯雑なる人生の一側面を写すものなり、一側面|猶《なほ》且《かつ》単純ならず、去れども写して神《しん》に入るときは、事物の紛糾《ふんきう》乱雑なるものを綜合して一の哲理を数ふるに足る、われ「エリオツト」の小説を読んで天性の悪人なき事を知りぬ、又罪を犯すものの恕《ゆる》すべくして且|憐《あはれ》むべきを知りぬ、一挙手一投足わが運命に関係あるを知りぬ、「サツカレー」の小説を読んで正直なるものの馬鹿らしきを知りぬ、狡猾《かうくわつ》奸佞《かんねい》なるものの世に珍重せらるべきを知りぬ、「ブロンテ」の小説を読んで人に感応あることを知りぬ、蓋《けだ》し小説に境遇を叙するものあり、品性を写すものあり、心理上の解剖を試むるものあり、直覚的に人世を観破するものあり、四者各其方面に向つて吾人に教ふる所なきにあらず、然れども人生は心理的解剖を以て終結するものにあらず、又直覚を以て観破し了《おほ》すべきにあらず、われは人生に於て是等《これら》以外に一種不可思議のものあるべきを信ず、所謂《いはゆる》不可思議とは「カツスル、オフ、オトラントー」の中の出来事にあらず、「タムオーシヤンター」を追《おひ》懸《か》けたる妖怪にあらず、「マクベス」の眼前に見《あら》はるゝ幽霊にあらず、「ホーソーン」の文「コルリツヂ」の詩中に入るべき人物の謂《いひ》にあらず、われ手を振り目を揺《うご》かして、而も其の何の故に手を振り目を揺かすかを知らず、因果の大法を蔑《ないがしろ》にし、自己の意思を離れ、卒然として起り、驀地《ばくち》に来るものを謂《い》ふ、世俗之を名づけて狂気と呼ぶ、狂気と呼ぶ固《もと》より不可なし、去れども此種の所為を目して狂気となす者共は、他人に対してかゝる不敬の称号を呈するに先《さきだ》つ
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