正岡子規
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)遣《や》って来た。

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)又|鮭《さけ》で

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)当り前にするときん[#「きん」に傍点]隠しが
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 正岡の食意地の張った話か。ハヽヽヽ。そうだなあ。なんでも僕が松山に居た時分、子規は支那から帰って来て僕のところへ遣《や》って来た。自分のうちへ行くのかと思ったら、自分のうちへも行かず親族のうちへも行かず、此処《ここ》に居るのだという。僕が承知もしないうちに、当人一人で極《き》めて居る。御承知の通り僕は上野の裏座敷を借りて居たので、二階と下、合せて四間あった。上野の人が頻《しき》りに止める。正岡さんは肺病だそうだから伝染するといけないおよしなさいと頻りにいう。僕も多少気味が悪かった。けれども断わらんでもいいと、かまわずに置く。僕は二階に居る、大将は下に居る。其うち松山中の俳句を遣《や》る門下生が集まって来る。僕が学校から帰って見ると、毎日のように多勢来て居る。僕は本を読む事もどうすることも出来ん。尤《もっと》も当時はあまり本を読む方でも無かったが、兎《と》に角《かく》自分の時間というものが無いのだから、止むを得ず俳句を作った。其から大将は昼になると蒲焼《かばやき》を取り寄せて、御承知の通りぴちゃぴちゃと音をさせて食う。それも相談も無く自分で勝手に命じて勝手に食う。まだ他の御馳走《ごちそう》も取寄せて食ったようであったが、僕は蒲焼の事を一番よく覚えて居る。それから東京へ帰る時分に、君払って呉《く》れ玉えといって澄まして帰って行った。僕もこれには驚いた。其上まだ金を貸せという。何でも十円かそこら持って行ったと覚えている。それから帰りに奈良へ寄って其処《そこ》から手紙をよこして、恩借の金子《きんす》は当地に於《おい》て正に遣《つか》い果《はた》し候とか何とか書いていた。恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。
 併《しか》し其前は始終《しじゅう》僕の方が御馳走《ごちそう》になったものだ。其うち覚えている事を一つ二つ話そうか。正岡という男は一向学校へ出なかった男だ。それからノートを借りて写すような手数をする男でも無かった。そこで試験前になると僕に来て呉《く》れという。僕が行ってノートを大略話してやる。彼奴《あいつ》の事だからええ加減に聞いて、ろくに分っていない癖《くせ》に、よしよし分ったなどと言って生呑込《なまのみこみ》にしてしまう。其時分は常盤会《ときわかい》寄宿舎に居たものだから、時刻になると食堂で飯を食う。或時又来て呉れという。僕が其時返辞をして、行ってもええけれど又|鮭《さけ》で飯を食わせるから厭《いや》だといった。其時は大に御馳走《ごちそう》をした。鮭を止めて近処の西洋料理屋か何かへ連れて行った。
 或日突然手紙をよこし、大宮の公園の中の万松庵に居るからすぐ来いという。行った。ところがなかなか綺麗《きれい》なうちで、大将奥座敷に陣取って威張っている。そうして其処《そこ》で鶉《うずら》か何かの焼いたのなどを食わせた。僕は其形勢を見て、正岡は金がある男と思っていた。処が実際はそうでは無かった。身代を皆食いつぶしていたのだ。其後熊本に居る時分、東京へ出て来た時、神田川へ飄亭《ひょうてい》と三人で行った事もあった。これはまだ正岡の足の立っていた時分だ。
 正岡の食意地の張った話というのは、もうこれ位ほか思い出せぬ。あの駒込追分奥井の邸内に居った時分は、一軒|別棟《べつむね》の家を借りていたので、下宿から飯を取寄せて食っていた。あの時分は『月の都』という小説を書いていて、大に得意で見せる。其時分は冬だった。大将|雪隠《せっちん》へ這入《はい》るのに火鉢《ひばち》を持って這入る。雪隠へ火鉢を持って行ったとて当る事が出来ないじゃないかというと、いや当り前にするときん[#「きん」に傍点]隠しが邪魔になっていかぬから、後ろ向きになって前に火鉢を置いて当るのじゃという。それで其火鉢で牛肉をじゃあじゃあ煮て食うのだからたまらない。それから其『月の都』を露伴に見せたら、眉山《びざん》、漣《さざなみ》の比で無いと露伴もいったとか言って、自分も非常にえらいもののようにいうものだから、其時分何も分らなかった僕も、えらいもののように思っていた。あの時分から正岡には何時《いつ》もごまかされていた。発句も近来|漸《ようや》く悟ったとかいって、もう恐ろしい者は無いように言っていた。相変らず僕は何も分らないのだから、小説同様えらいのだろうと思っていた。それから頻《しき》りに僕に発句を作れと強《し》いる。其家の向うに笹藪《ささやぶ》がある。あれを句にするのだ、ええかとか何
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