とかいう。こちらは何ともいわぬに、向うで極《き》めている。まあ子分のように人を扱うのだなあ。
又正岡はそれより前漢詩を遣《や》っていた。それから一六風か何かの書体を書いていた。其頃僕も詩や漢文を遣っていたので、大に彼の一粲《いっさん》を博した。僕が彼に知られたのはこれが初めであった。或時僕が房州に行った時の紀行文を漢文で書いて其中に下らない詩などを入れて置いた、それを見せた事がある。処が大将頼みもしないのに跋《ばつ》を書いてよこした。何でも其中に、英書を読む者は漢籍が出来ず、漢籍の出来るものは英書は読めん、我兄の如きは千万人中の一人なりとか何とか書いて居った。処が其大将の漢文たるや甚《はなは》だまずいもので、新聞の論説の仮名を抜いた様なものであった。けれども詩になると彼は僕よりも沢山《たくさん》作って居り平仄《ひょうそく》も沢山《たくさん》知って居る。僕のは整わんが、彼のは整って居る。漢文は僕の方に自信があったが、詩は彼の方が旨《うま》かった。尤《もっと》も今から見たらまずい詩ではあろうが、先《ま》ず其時分の程度で纏《まとま》ったものを作って居ったらしい。たしか内藤さんと一緒に始終《しじゅう》やって居たかと聞いている。
彼は僕などより早熟で、いやに哲学などを振り廻すものだから、僕などは恐れを為《な》していた。僕はそういう方に少しも発達せず、まるでわからん処へ持って来て、彼はハルトマンの哲学書か何かを持ち込み、大分振り廻していた。尤《もっと》も厚い独逸書《ドイツしょ》で、外国にいる加藤恒忠氏に送って貰ったもので、ろくに読めもせぬものを頻《しき》りにひっくりかえしていた。幼稚な正岡が其を振り廻すのに恐れを為《な》していた程、こちらは愈※[#二の字点、1−2−22]《いよいよ》幼稚なものであった。
妙に気位の高かった男で、僕なども一緒に矢張り気位の高い仲間であった。ところが今から考えると、両方共それ程えらいものでも無かった。といって徒《いたず》らに吹き飛ばすわけでは無かった。当人は事実をいっているので、事実えらいと思っていたのだ。教員などは滅茶苦茶《めちゃくちゃ》であった。同級生なども滅茶苦茶であった。
非常に好き嫌いのあった人で、滅多《めった》に人と交際などはしなかった。僕だけどういうものか交際した。一つは僕の方がええ加減に合わして居ったので、それも苦痛なら止め
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