戸前《いくとまえ》とかあったのだと、かつて人から教えられたようにも思うが、何しろその大番町という所を、この年になるまで今だに通った事のない私のことだから、そんな細かな点はまるで忘れてしまった。たといそれが事実であったにせよ、私の今もっている母の記念のなかに蔵屋敷などはけっして現われて来ないのである。おおかたその頃にはもう潰《つぶ》れてしまったのだろう。
母が父の所へ嫁にくるまで御殿奉公をしていたという話も朧気《おぼろげ》に覚えているが、どこの大名の屋敷へ上って、どのくらい長く勤めていたものか、御殿奉公の性質さえよく弁《わきま》えない今の私には、ただ淡《あわ》い薫《かおり》を残して消えた香《こう》のようなもので、ほとんどとりとめようのない事実である。
しかしそう云えば、私は錦絵《にしきえ》に描《か》いた御殿女中の羽織っているような華美《はで》な総模様の着物を宅の蔵の中で見た事がある。紅絹裏《もみうら》を付けたその着物の表には、桜だか梅だかが一面に染め出されて、ところどころに金糸や銀糸の刺繍《ぬい》も交《まじ》っていた。これは恐らく当時の裲襠《かいどり》とかいうものなのだろう。しかし母がそれを打ち掛けた姿は、今想像してもまるで眼に浮かばない。私の知っている母は、常に大きな老眼鏡をかけた御婆さんであったから。
それのみか私はこの美くしい裲襠がその後《ご》小掻巻《こがいまき》に仕立直されて、その頃宅にできた病人の上に載せられたのを見たくらいだから。
三十八
私が大学で教《おす》わったある西洋人が日本を去る時、私は何か餞別《せんべつ》を贈ろうと思って、宅の蔵から高蒔絵《たかまきえ》の緋《ひ》の房《ふさ》の付いた美しい文箱《ふばこ》を取り出して来た事も、もう古い昔である。それを父の前へ持って行って貰い受けた時の私は、全く何の気もつかなかったが、今こうして筆を執《と》って見ると、その文箱も小掻巻に仕立直された紅絹裏の裲襠同様に、若い時分の母の面影《おもかげ》を濃《こまや》かに宿しているように思われてならない。母は生涯《しょうがい》父から着物を拵《こしら》えて貰った事がないという話だが、はたして拵えて貰わないでもすむくらいな支度《したく》をして来たものだろうか。私の心に映るあの紺無地《こんむじ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》も、幅の狭い黒繻子《くろじゅす》の帯も、やはり嫁に来た時からすでに箪笥《たんす》の中にあったものなのだろうか。私は再び母に会って、万事をことごとく口ずから訊《き》いて見たい。
悪戯《いたずら》で強情な私は、けっして世間の末《すえ》ッ子《こ》のように母から甘く取扱かわれなかった。それでも宅中《うちじゅう》で一番私を可愛《かわい》がってくれたものは母だという強い親しみの心が、母に対する私の記憶の中《うち》には、いつでも籠《こも》っている。愛憎を別にして考えて見ても、母はたしかに品位のある床《ゆか》しい婦人に違なかった。そうして父よりも賢《かし》こそうに誰の目にも見えた。気むずかしい兄も母だけには畏敬《いけい》の念を抱《いだ》いていた。
「御母《おっか》さんは何にも云わないけれども、どこかに怖《こわ》いところがある」
私は母を評した兄のこの言葉を、暗い遠くの方から明らかに引張出《ひっぱりだ》してくる事が今でもできる。しかしそれは水に融《と》けて流れかかった字体を、きっとなってやっと元の形に返したような際《きわ》どい私の記憶の断片に過ぎない。そのほかの事になると、私の母はすべて私にとって夢である。途切《とぎ》れ途切れに残っている彼女の面影《おもかげ》をいくら丹念に拾い集めても、母の全体はとても髣髴《ほうふつ》する訳に行かない。その途切《とぎれ》途切に残っている昔さえ、半《なか》ば以上はもう薄れ過ぎて、しっかりとは掴《つか》めない。
或時私は二階へ上《あが》って、たった一人で、昼寝をした事がある。その頃の私は昼寝をすると、よく変なものに襲われがちであった。私の親指が見る間に大きくなって、いつまで経《た》っても留らなかったり、あるいは仰向《あおむき》に眺めている天井《てんじょう》がだんだん上から下りて来て、私の胸を抑《おさ》えつけたり、または眼を開《あ》いて普段と変らない周囲を現に見ているのに、身体《からだ》だけが睡魔の擒《とりこ》となって、いくらもがいても、手足を動かす事ができなかったり、後で考えてさえ、夢だか正気だか訳の分らない場合が多かった。そうしてその時も私はこの変なものに襲われたのである。
私はいつどこで犯した罪か知らないが、何しろ自分の所有でない金銭を多額に消費してしまった。それを何の目的で何に遣《つか》ったのか、その辺も明瞭《めいりょう》でないけれども、小供の私にはとても償《つぐな》う訳
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