かめせい》の団扇《うちわ》などが茶の間に放《ほう》り出《だ》されるようになった。それだけならまだ好いが、彼は長火鉢《ながひばち》の前へ坐《すわ》ったまま、しきりに仮色《こわいろ》を遣《つか》い出した。しかし宅のものは別段それに頓着《とんじゃく》する様子も見えなかった。私は無論平気であった。仮色《こわいろ》と同時に藤八拳《とうはちけん》も始まった。しかしこの方《ほう》は相手が要《い》るので、そう毎晩は繰り返されなかったが、何しろ変に無器用な手を上げたり下げたりして、熱心にやっていた。相手はおもに三番目の兄が勤めていたようである。私は真面目《まじめ》な顔をして、ただ傍観しているに過ぎなかった。
この兄はとうとう肺病で死んでしまった。死んだのはたしか明治二十年だと覚えている。すると葬式も済み、待夜《たいや》も済んで、まず一片付《ひとかたづき》というところへ一人の女が尋ねて来た。三番目の兄が出て応接して見ると、その女は彼にこんな事を訊《き》いた。
「兄さんは死ぬまで、奥さんを御持ちになりゃしますまいね」
兄は病気のため、生涯《しょうがい》妻帯しなかった。
「いいえしまいまで独身で暮らしていました」
「それを聞いてやっと安心しました。妾《わたくし》のようなものは、どうせ旦那《だんな》がなくっちゃ生きて行かれないから、仕方がありませんけれども、……」
兄の遺骨の埋《う》められた寺の名を教《おす》わって帰って行ったこの女は、わざわざ甲州から出て来たのであるが、元柳橋の芸者をしている頃、兄と関係があったのだという話を、私はその時始めて聞いた。
私は時々この女に会って兄の事などを物語って見たい気がしないでもない。しかし会ったら定めし御婆《おばあ》さんになって、昔とはまるで違った顔をしていはしまいかと考える。そうしてその心もその顔同様に皺《しわ》が寄って、からからに乾いていはしまいかとも考える。もしそうだとすると、彼女《かのおんな》が今になって兄の弟の私に会うのは、彼女にとってかえって辛《つら》い悲しい事かも知れない。
三十七
私は母の記念のためにここで何か書いておきたいと思うが、あいにく私の知っている母は、私の頭に大した材料を遺《のこ》して行ってくれなかった。
母の名は千枝《ちえ》といった。私は今でもこの千枝という言葉を懐《なつ》かしいものの一つに数えている。だから私にはそれがただ私の母だけの名前で、けっしてほかの女の名前であってはならないような気がする。幸いに私はまだ母以外の千枝という女に出会った事がない。
母は私の十三四の時に死んだのだけれども、私の今遠くから呼び起す彼女の幻像は、記憶の糸をいくら辿《たど》って行っても、御婆さんに見える。晩年に生れた私には、母の水々しい姿を覚えている特権がついに与えられずにしまったのである。
私の知っている母は、常に大きな眼鏡《めがね》をかけて裁縫《しごと》をしていた。その眼鏡は鉄縁の古風なもので、球《たま》の大きさが直径《さしわたし》二寸以上もあったように思われる。母はそれをかけたまま、すこし顋《あご》を襟元《えりもと》へ引きつけながら、私をじっと見る事がしばしばあったが、老眼の性質を知らないその頃の私には、それがただ彼女の癖とのみ考えられた。私はこの眼鏡と共に、いつでも母の背景になっていた一間《いっけん》の襖《ふすま》を想《おも》い出《だ》す。古びた張交《はりまぜ》の中《うち》に、生死事大《しょうじじだい》無常迅速《むじょうじんそく》云々と書いた石摺《いしずり》なども鮮《あざ》やかに眼に浮んで来る。
夏になると母は始終《しじゅう》紺無地《こんむじ》の絽《ろ》の帷子《かたびら》を着て、幅の狭い黒繻子《くろじゅす》の帯を締《し》めていた。不思議な事に、私の記憶に残っている母の姿は、いつでもこの真夏の服装《なり》で頭の中に現われるだけなので、それから紺無地の絽の着物と幅の狭い黒繻子の帯を取り除くと、後に残るものはただ彼女の顔ばかりになる。母がかつて縁鼻《えんばな》へ出て、兄と碁《ご》を打っていた様子などは、彼ら二人を組み合わせた図柄《ずがら》として、私の胸に収めてある唯一《ゆいいつ》の記念《かたみ》なのだが、そこでも彼女はやはり同じ帷子《かたびら》を着て、同じ帯を締《し》めて坐っているのである。
私はついぞ母の里へ伴《つ》れて行かれた覚《おぼえ》がないので、長い間母がどこから嫁に来たのか知らずに暮らしていた。自分から求めて訊《き》きたがるような好奇心はさらになかった。それでその点もやはりぼんやり霞《かす》んで見えるよりほかに仕方がないのだが、母が四《よ》ツ谷《や》大番町《おおばんまち》で生れたという話だけは確《たし》かに聞いていた。宅《うち》は質屋であったらしい。蔵が幾
前へ
次へ
全32ページ中29ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング