いどんな事を講演なすったのですか」
 私は席上で、彼のためにまたその講演の梗※[#「(漑−さんずい)/木」、第3水準1−86−3]《こうがい》を繰《く》り返《かえ》した。
「別にむずかしいとも思えない事だろう君。どうしてそれが解らないかしら」
「解らないでしょう。どうせ解りゃしません」
 私には断乎《だんこ》たるこの返事がいかにも不思議に聞こえた。しかしそれよりもなお強く私の胸を打ったのは、止《よ》せばよかったという後悔の念であった。自白すると、私はこの学校から何度となく講演を依頼されて、何度となく断ったのである。だからそれを最後に引き受けた時の私の腹には、どうかしてそこに集まる聴衆に、相当の利益を与えたいという希望があった。その希望が、「どうせ解りゃしません」という簡単な彼の一言《いちごん》で、みごとに粉砕《ふんさい》されてしまって見ると、私はわざわざ浅草まで行く必要がなかったのだと、自分を考えない訳に行かなかった。
 これはもう一二年前の古い話であるが去年の秋またある学校で、どうしても講演をやらなければ義理が悪い事になって、ついにそこへ行った時、私はふと私を後悔させた前年を思い出した。それに私の論じたその時の題目が、若い聴衆の誤解を招きやすい内容を含んでいたので、私は演壇を下りる間際《まぎわ》にこう云った。――
「多分誤解はないつもりですが、もし私の今御話したうちに、判然《はっきり》しないところがあるなら、どうぞ私宅まで来て下さい。できるだけあなたがたに御納得《ごなっとく》の行くように説明して上げるつもりですから」
 私のこの言葉が、どんな風に反響をもたらすだろうかという予期は、当時の私にはほとんど無かったように思う。しかしそれから四五日|経《た》って、三人の青年が私の書斎に這入《はい》って来たのは事実である。そのうちの二人は電話で私の都合を聞き合せた。一人は鄭寧《ていねい》な手紙を書いて、面会の時間を拵《こしら》えてくれと注文して来た。
 私は快《こころ》よくそれらの青年に接した。そうして彼らの来意を確《たし》かめた。一人の方は私の予想通り、私の講演についての筋道の質問であったが、残る二人の方は、案外にも彼らの友人がその家庭に対して採《と》るべき方針についての疑義を私に訊《き》こうとした。したがってこれは私の講演を、どう実社会に応用して好いかという彼らの目前に逼《せま》った問題を持って来たのである。
 私はこれら三人のために、私の云うべき事を云い、説明すべき事を説明したつもりである。それが彼らにどれほどの利益を与えたか、結果からいうとこの私にも分らない。しかしそれだけにしたところで私には満足なのである。「あなたの講演は解らなかったそうです」と云われた時よりも遥《はるか》に満足なのである。
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〔この稿が新聞に出た二三日あとで、私は高等工業の学生から四五通の手紙を受取った。その人々はみんな私の講演を聴いたものばかりで、いずれも私がここで述べた失望を打ち消すような事実を、反証として書いて来てくれたのである。だからその手紙はみな好意に充《み》ちていた。なぜ一学生の云った事を、聴衆全体の意見として速断するかなどという詰問的のものは一つもなかった。それで私はここに一言を附加して、私の不明を謝し、併《あわ》せて私の誤解を正してくれた人々の親切をありがたく思う旨《むね》を公けにするのである。〕
[#ここで字下げ終わり]

        三十五

 私は小供の時分よく日本橋の瀬戸物町《せとものちょう》にある伊勢本《いせもと》という寄席《よせ》へ講釈を聴きに行った。今の三越の向側《むこうがわ》にいつでも昼席の看板がかかっていて、その角《かど》を曲ると、寄席はつい小半町行くか行かない右手にあったのである。
 この席は夜になると、色物《いろもの》だけしかかけないので、私は昼よりほかに足を踏み込んだ事がなかったけれども、席数からいうと一番多く通《かよ》った所のように思われる。当時私のいた家は無論高田の馬場の下ではなかった。しかしいくら地理の便が好かったからと云って、どうしてあんなに講釈を聴きに行く時間が私にあったものか、今考えるとむしろ不思議なくらいである。
 これも今からふり返って遠い過去を眺めるせいでもあろうが、そこは寄席としてはむしろ上品な気分を客に起させるようにできていた。高座《こうざ》の右側《みぎわき》には帳場格子《ちょうばごうし》のような仕切《しきり》を二方に立て廻して、その中に定連《じょうれん》の席が設けてあった。それから高座の後《うしろ》が縁側《えんがわ》で、その先がまた庭になっていた。庭には梅の古木が斜《なな》めに井桁《いげた》の上に突き出たりして、窮屈な感じのしないほどの大空が、縁から仰がれるくらいに余
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