に受けて、すべて正面から彼らの言語動作を解釈すべきものだろうか。もし私が持って生れたこの単純な性情に自己を託して顧《かえり》みないとすると、時々飛んでもない人から騙《だま》される事があるだろう。その結果|蔭《かげ》で馬鹿にされたり、冷評《ひや》かされたりする。極端な場合には、自分の面前でさえ忍ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。
それでは他はみな擦《す》れ枯《か》らしの嘘吐《うそつき》ばかりと思って、始めから相手の言葉に耳も借《か》さず、心も傾《かたむ》けず、或時はその裏面に潜《ひそ》んでいるらしい反対の意味だけを胸に収めて、それで賢《かしこ》い人だと自分を批評し、またそこに安住の地を見出し得るだろうか。そうすると私は人を誤解しないとも限らない。その上恐るべき過失を犯す覚悟を、初手《しょて》から仮定して、かからなければならない。或時は必然の結果として、罪のない他を侮辱するくらいの厚顔を準備しておかなければ、事が困難になる。
もし私の態度をこの両面のどっちかに片づけようとすると、私の心にまた一種の苦悶《くもん》が起る。私は悪い人を信じたくない。それからまた善《よ》い人を少しでも傷《きずつ》けたくない。そうして私の前に現われて来る人は、ことごとく悪人でもなければ、またみんな善人とも思えない。すると私の態度も相手しだいでいろいろに変って行かなければならないのである。
この変化は誰にでも必要で、また誰でも実行している事だろうと思うが、それがはたして相手にぴたりと合って寸分間違のない微妙な特殊な線の上をあぶなげもなく歩いているだろうか。私の大いなる疑問は常にそこに蟠《わだか》まっている。
私の僻《ひがみ》を別にして、私は過去において、多くの人から馬鹿にされたという苦《にが》い記憶をもっている。同時に、先方の云う事や為《す》る事を、わざと平たく取らずに、暗《あん》にその人の品性に恥を掻《か》かしたと同じような解釈をした経験もたくさんありはしまいかと思う。
他《ひと》に対する私の態度はまず今までの私の経験から来る。それから前後の関係と四囲の状況から出る。最後に、曖昧《あいまい》な言葉ではあるが、私が天から授かった直覚が何分か働らく。そうして、相手に馬鹿にされたり、また相手を馬鹿にしたり、稀《まれ》には相手に彼相当な待遇を与えたりしている。
しかし今までの経験というものは、広いようで、その実《じつ》はなはだ狭い。ある社会の一部分で、何度となく繰り返された経験を、他の一部分へ持って行くと、まるで通用しない事が多い。前後の関係とか四囲の状況とか云ったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限られているばかりか、その実千差万別に思慮を廻《めぐ》らさなければ役に立たなくなる。しかもそれを廻らす時間も、材料も充分給与されていない場合が多い。
それで私はともすると事実あるのだか、またないのだか解らない、極《きわ》めてあやふやな自分の直覚というものを主位に置いて、他を判断したくなる。そうして私の直覚がはたして当ったか当らないか、要するに客観的事実によって、それを確《たしか》める機会をもたない事が多い。そこにまた私の疑いが始終《しじゅう》靄《もや》のようにかかって、私の心を苦しめている。
もし世の中に全知全能《ぜんちぜんのう》の神があるならば、私はその神の前に跪《ひざま》ずいて、私に毫髪《ごうはつ》の疑《うたがい》を挟《さしはさ》む余地もないほど明らかな直覚を与えて、私をこの苦悶《くもん》から解脱《げだつ》せしめん事を祈る。でなければ、この不明な私の前に出て来るすべての人を、玲瓏透徹《れいろうとうてつ》な正直ものに変化して、私とその人との魂がぴたりと合うような幸福を授けたまわん事を祈る。今の私は馬鹿で人に騙《だま》されるか、あるいは疑い深くて人を容《い》れる事ができないか、この両方だけしかないような気がする。不安で、不透明で、不愉快に充《み》ちている。もしそれが生涯《しょうがい》つづくとするならば、人間とはどんなに不幸なものだろう。
三十四
私が大学にいる頃教えたある文学士が来て、「先生はこの間高等工業で講演をなすったそうですね」というから、「ああやった」と答えると、その男が「何でも解らなかったようですよ」と教えてくれた。
それまで自分の云った事について、その方面の掛念《けねん》をまるでもっていなかった私は、彼の言葉を聞くとひとしく、意外の感に打たれた。
「君はどうしてそんな事を知ってるの」
この疑問に対する彼の説明は簡単であった。親戚だか知人だか知らないが、何しろ彼に関係のある或|家《うち》の青年が、その学校に通っていて、当日私の講演を聴いた結果を、何だか解らないという言葉で彼に告げたのである。
「いった
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