そば》へ寄りつこうという好意を現わした事がない。
 ある時彼は台所の戸棚《とだな》へ這入って、鍋《なべ》の中へ落ちた。その鍋の中には胡麻《ごま》の油がいっぱいあったので、彼の身体《からだ》はコスメチックでも塗りつけたように光り始めた。彼はその光る身体で私の原稿紙の上に寝たものだから、油がずっと下まで滲《し》み通《とお》って私をずいぶんな目に逢《あ》わせた。
 去年私の病気をする少し前に、彼は突然皮膚病に罹《かか》った。顔から額へかけて、毛がだんだん抜けて来る。それをしきりに爪で掻《か》くものだから、瘡葢《かさぶた》がぼろぼろ落ちて、痕《あと》が赤裸《あかはだか》になる。私はある日食事中この見苦しい様子を眺めて厭《いや》な顔をした。
「ああ瘡葢を零《こぼ》して、もし小供にでも伝染するといけないから、病院へ連れて行って早く療治をしてやるがいい」
 私は家《うち》のものにこういったが、腹の中では、ことによると病気が病気だから全治しまいとも思った。昔《むか》し私の知っている西洋人が、ある伯爵から好い犬を貰って可愛《かわい》がっていたところ、いつかこんな皮膚病に悩まされ出したので、気の毒だからと云って、医者に頼んで殺して貰った事を、私はよく覚えていたのである。
「クロロフォームか何かで殺してやった方が、かえって苦痛がなくって仕合せだろう」
 私は三四度《さんよたび》同じ言葉を繰《く》り返《かえ》して見たが、猫がまだ私の思う通りにならないうちに、自分の方が病気でどっと寝てしまった。その間私はついに彼を見る機会をもたなかった。自分の苦痛が直接自分を支配するせいか、彼の病気を考える余裕さえ出なかった。
 十月に入《い》って、私はようやく起きた。そうして例のごとく黒い彼を見た。すると不思議な事に、彼の醜い赤裸の皮膚にもとのような黒い毛が生《は》えかかっていた。
「おや癒《なお》るのかしら」
 私は退屈な病後の眼を絶えず彼の上に注いでいた。すると私の衰弱がだんだん回復するにつれて、彼の毛もだんだん濃くなって来た。それが平生の通りになると、今度は以前より肥え始めた。
 私は自分の病気の経過と彼の病気の経過とを比較して見て、時々そこに何かの因縁《いんねん》があるような暗示を受ける。そうしてすぐその後から馬鹿らしいと思って微笑する。猫の方ではただにやにや鳴くばかりだから、どんな心持でいるのか
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