ると客は突然こんな話を私にして聞かせた。
「まだ使用人であった頃に、ある女と二年ばかり会っていた事があります。相手は無論|素人《しろうと》ではないのでした。しかしその女はもういないのです。首を縊《くく》って死んでしまったのです。年は十九でした。十日ばかり会わないでいるうちに死んでしまったのです。その女にはね、旦那《だんな》が二人あって、双方が意地ずくで、身受の金を競《せ》り上《あ》げにかかったのです。それに双方共老妓を味方にして、こっちへ来い、あっちへ行くなと義理責《ぎりぜめ》にもしたらしいのです。……」
「あなたはそれを救ってやる訳に行かなかったのですか」
「当時の私は丁稚《でっち》の少し毛の生《は》えたようなもので、とてもどうもできないのです」
「しかしその芸妓《げいしゃ》はあなたのために死んだのじゃありませんか」
「さあ……。一度に双方の旦那に義理を立てる訳に行かなかったからかも知れませんが。……しかし私ら二人の間に、どこへも行かないという約束はあったに違ないのです」
「するとあなたが間接にその女を殺した事になるのかも知れませんね」
「あるいはそうかも知れません」
「あなたは寝覚《ねざめ》が悪かありませんか」
「どうも好くないのです」
元日に込《こ》み合《あ》った私の座敷は、二日になって淋《さび》しいくらい静かであった。私はその淋しい春の松の内に、こういう憐《あわ》れな物語りを、その年賀の客から聞いたのである。客は真面目《まじめ》な正直な人だったから、それを話すにも、ほとんど艶《つや》っぽい言葉を使わなかった。
二十五
私がまだ千駄木にいた頃の話だから、年数にすると、もうだいぶ古い事になる。
或日私は切通《きりどお》しの方へ散歩した帰りに、本郷四丁目の角へ出る代りに、もう一つ手前の細い通りを北へ曲った。その曲り角にはその頃あった牛屋《ぎゅうや》の傍《そば》に、寄席《よせ》の看板がいつでも懸《かか》っていた。
雨の降る日だったので、私は無論|傘《かさ》をさしていた。それが鉄御納戸《てつおなんど》の八間《はちけん》の深張で、上から洩《も》ってくる雫《しずく》が、自然木《じねんぼく》の柄《え》を伝わって、私の手を濡《ぬ》らし始めた。人通りの少ないこの小路《こうじ》は、すべての泥を雨で洗い流したように、足駄《あしだ》の歯に引《ひ》っ懸《かか
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