しいのです。だから私が何か云ったら、腹に答えべき或物を持っている以上、けっして黙っていてはいけません。こんな事を云ったら笑われはしまいか、恥を掻《か》きはしまいか、または失礼だといって怒られはしまいかなどと遠慮して、相手に自分という正体を黒く塗り潰《つぶ》した所ばかり示す工夫《くふう》をするならば、私がいくらあなたに利益を与えようと焦慮《あせっ》ても、私の射る矢はことごとく空矢《あだや》になってしまうだけです。
「これは私のあなたに対する注文ですが、その代り私の方でもこの私というものを隠しは致しません。ありのままを曝《さら》け出《だ》すよりほかに、あなたを教える途《みち》はないのです。だから私の考えのどこかに隙《すき》があって、その隙をもしあなたから見破られたら、私はあなたに私の弱点を握られたという意味で敗北の結果に陥《おちい》るのです。教を受ける人だけが自分を開放する義務をもっていると思うのは間違っています。教える人も己《おの》れをあなたの前に打ち明けるのです。双方とも社交を離れて勘破《かんぱ》し合うのです。
「そういう訳で私はこれからあなたの書いたものを拝見する時に、ずいぶん手ひどい事を思い切って云うかも知れませんが、しかし怒ってはいけません。あなたの感情を害するためにいうのではないのですから。その代りあなたの方でも腑《ふ》に落ちない所があったらどこまでも切り込んでいらっしゃい。あなたが私の主意を了解している以上、私はけっして怒るはずはありませんから。
「要するにこれはただ現状維持を目的として、上滑《うわすべ》りな円滑を主位に置く社交とは全く別物なのです。解りましたか」
女は解ったと云って帰って行った。
十二
私に短冊《たんざく》を書けの、詩を書けのと云って来る人がある。そうしてその短冊やら絖《ぬめ》やらをまだ承諾もしないうちに送って来る。最初のうちはせっかくの希望を無にするのも気の毒だという考から、拙《まず》い字とは思いながら、先方の云うなりになって書いていた。けれどもこうした好意は永続しにくいものと見えて、だんだん多くの人の依頼を無にするような傾向が強くなって来た。
私はすべての人間を、毎日毎日恥を掻《か》くために生れてきたものだとさえ考える事もあるのだから、変な字を他《ひと》に送ってやるくらいの所作《しょさ》は、あえてしようと思え
前へ
次へ
全63ページ中17ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング