《おも》い出すたびに、達人《たつじん》という彼の名を考える。するとその名がとくに彼のために天から与えられたような心持になる。そうしてその達人が雪と氷に鎖《と》ざされた北の果《はて》に、まだ中学校長をしているのだなと思う。

        十一

 ある奥さんがある女の人を私に紹介した。
「何か書いたものを見ていただきたいのだそうでございます」
 私は奥さんのこの言葉から、頭の中でいろいろの事を考えさせられた。今《いま》まで私の所へ自分の書いたものを読んでくれと云って来たものは何人となくある。その中には原稿紙の厚さで、一寸または二寸ぐらいの嵩《かさ》になる大部のものも交っていた。それを私は時間の都合の許す限りなるべく読んだ。そうして簡単な私はただ読みさえすれば自分の頼まれた義務を果《はた》したものと心得て満足していた。ところが先方では後から新聞に出してくれと云ったり、雑誌へ載せて貰《もら》いたいと頼んだりするのが常であった。中には他《ひと》に読ませるのは手段で、原稿を金に換えるのが本来の目的であるように思われるのも少なくはなかった。私は知らない人の書いた読みにくい原稿を好意的に読むのがだんだん厭《いや》になって来た。
 もっとも私の時間に教師をしていた頃から見ると、多少の弾力性ができてきたには相違なかった。それでも自分の仕事にかかれば腹の中はずいぶん多忙であった。親切ずくで見てやろうと約束した原稿すら、なかなか埒《らち》のあかない場合もないとは限らなかった。
 私は私の頭で考えた通りの事をそのまま奥さんに話した。奥さんはよく私のいう意味を領解して帰って行った。約束の女が私の座敷へ来て、座蒲団《ざぶとん》の上に坐ったのはそれから間もなくであった。佗《わ》びしい雨が今にも降り出しそうな暗い空を、硝子戸越《ガラスどごし》に眺めながら、私は女にこんな話をした。――
「これは社交ではありません。御互に体裁《ていさい》の好い事ばかり云い合っていては、いつまで経《た》ったって、啓発されるはずも、利益を受ける訳もないのです。あなたは思い切って正直にならなければ駄目《だめ》ですよ。自分さえ充分に開放して見せれば、今あなたがどこに立ってどっちを向いているかという実際が、私によく見えて来るのです。そうした時、私は始めてあなたを指導する資格を、あなたから与えられたものと自覚しても宜《よろ》
前へ 次へ
全63ページ中16ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング