に、昨日《きのう》起った社会の変化を知って、そうして役所か会社へ行き着くと同時に、ポッケットに収めた新聞紙の事はまるで忘れてしまわなければならないほど忙がしいのだから。
私は今これほど切りつめられた時間しか自由にできない人達の軽蔑《けいべつ》を冒《おか》して書くのである。
去年から欧洲では大きな戦争が始まっている。そうしてその戦争がいつ済むとも見当《けんとう》がつかない模様である。日本でもその戦争の一小部分を引き受けた。それが済むと今度は議会が解散になった。来《きた》るべき総選挙は政治界の人々にとっての大切な問題になっている。米が安くなり過ぎた結果農家に金が入らないので、どこでも不景気だと零《こぼ》している。年中行事で云えば、春の相撲《すもう》が近くに始まろうとしている。要するに世の中は大変多事である。硝子戸の中にじっと坐っている私なぞはちょっと新聞に顔が出せないような気がする。私が書けば政治家や軍人や実業家や相撲狂《すもうきょう》を押《お》し退《の》けて書く事になる。私だけではとてもそれほどの胆力が出て来ない。ただ春に何か書いて見ろと云われたから、自分以外にあまり関係のないつまらぬ事を書くのである。それがいつまでつづくかは、私の筆の都合《つごう》と、紙面の編輯《へんしゅう》の都合とできまるのだから、判然《はっきり》した見当は今つきかねる。
二
電話口へ呼び出されたから受話器を耳へあてがって用事を訊《き》いて見ると、ある雑誌社の男が、私の写真を貰《もら》いたいのだが、いつ撮《と》りに行って好いか都合を知らしてくれろというのである。私は「写真は少し困ります」と答えた。
私はこの雑誌とまるで関係をもっていなかった。それでも過去三四年の間にその一二冊を手にした記憶はあった。人の笑っている顔ばかりをたくさん載《の》せるのがその特色だと思ったほかに、今は何にも頭に残っていない。けれどもそこにわざとらしく笑っている顔の多くが私に与えた不快の印象はいまだに消えずにいた。それで私は断《こと》わろうとしたのである。
雑誌の男は、卯年《うどし》の正月号だから卯年の人の顔を並べたいのだという希望を述べた。私は先方のいう通り卯年の生れに相違なかった。それで私はこう云った。――
「あなたの雑誌へ出すために撮《と》る写真は笑わなくってはいけないのでしょう」
「いえ
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