している。倫敦《ロンドン》で池田君に逢《あ》ったのは、自分には大変な利益であった。御蔭《おかげ》で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織だったどっしりした研究をやろうと思い始めた。それから其方針で少しやって、全部の計画は日本でやり上げる積《つもり》で西洋から帰って来ると、大学に教えてはどうかということだったので、そんならそうしようと言って大学に出ることになった。(是《これ》も今云った自分の研究にはならないから、最初は断ったのである。)
さて正岡子規君とは元からの友人であったので、私が倫敦《ロンドン》に居る時、正岡に下宿で閉口した模様を手紙にかいて送ると、正岡はそれを『ホトトギス』に載《の》せた。『ホトトギス』とは元から関係があったが、それが近因で、私が日本に帰った時(正岡はもう死んで居た)編輯者《へんしゅうしゃ》の虚子から何か書いて呉《く》れないかと嘱《たの》まれたので、始めて『吾輩は猫である』というのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可《いけ》ませんと云う。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸《まる》で忘れて仕舞《しま》ったが、兎《と》に角《かく》尤《もっと》もだと思って書き直した。
今度は虚子が大いに賞《ほ》めてそれを『ホトトギス』に載せたが、実はそれ一回きりのつもりだったのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けというので、だんだん書いて居るうちにあんなに長くなって了《しま》った。というような訳だから、私はただ偶然そんなものを書いたというだけで、別に当時の文壇に対してどうこうという考も何もなかった。ただ書きたいから書き、作りたいから作ったまでで、つまり言えば、私がああいう時機に達して居たのである。もっとも書き初めた時と、終る時分とは余程《よほど》考が違って居た。文体なども人を真似《まね》るのがいやだったから、あんな風にやって見たに過ぎない。
何しろそんな風で今日迄やって来たのだが、以上を綜合《そうごう》して考えると、私は何事に対しても積極的でないから、考えて自分でも驚ろいた。文科に入ったのも友人のすすめだし、教師になったのも人がそう言って呉《く》れたからだし、洋行したのも、帰って来て大学に勤めたのも、『朝日新聞』に入ったのも、小説を書いたのも、皆そうだ。だから私という者は、一方から言えば、他《ひと》が造って呉れたようなものである。
底本:「筑摩全集類
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