処女作追懐談
夏目漱石

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)先《ま》ず

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)随分|呑気《のんき》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「陷のつくり+炎」、第3水準1−87−64、306上−19]
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 私の処女作――と言えば先《ま》ず『猫』だろうが、別に追懐する程のこともないようだ。ただ偶然ああいうものが出来たので、私はそういう時機に達して居たというまでである。
 というのが、もともと私には何をしなければならぬということがなかった。勿論《もちろん》生きて居るから何かしなければならぬ。する以上は、自己の存在を確実にし、此処《ここ》に個人があるということを他にも知らせねばならぬ位の了見《りょうけん》は、常人と同じ様に持っていたかも知れぬ。けれども創作の方面で自己を発揮しようとは、創作をやる前迄も別段考えていなかった。
 話が自分の経歴見たようなものになるが、丁度《ちょうど》私が大学を出てから間もなくのこと、或日外山正一氏から一寸《ちょっと》来いと言って来たので、行って見ると、教師をやって見てはどうかということである。私は別にやって見たいともやって見たくないとも思って居なかったが、そう言われて見ると、またやって見る気がないでもない。それで兎《と》に角《かく》やって見ようと思ってそういうと、外山さんは私を嘉納さんのところへやった。嘉納さんは高等師範の校長である。其処《そこ》へ行って先《ま》ず話を聴いて見ると、嘉納さんは非常に高いことを言う。教育の事業はどうとか、教育者はどうなければならないとか、迚《とて》も我々にはやれそうにもない。今なら話を三分の一に聴いて仕事も三分の一位で済《す》まして置くが、その時分は馬鹿正直だったので、そうは行かなかった。そこで迚も私には出来ませんと断ると、嘉納さんが旨《うま》い事をいう。あなたの辞退するのを見て益《ますます》依頼し度《た》くなったから、兎に角やれるだけやってくれとのことであった。そう言われて見ると、私の性質として又断り切れず、とうとう高等師範に勤めることになった。それが私のライフのスタートであった。
 茲《ここ》で一寸話が大戻りをするが、私も
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