だな》をつけてやった。ある時何かのついでに、時に御前の顔は何かに似ているよと云ったら、どうせ碌《ろく》なものに似ているのじゃございますまいと答えたので、およそ人間として何かに似ている以上は、まず動物にきまっている。ほかに似ようたって容易に似られる訳のものじゃないと言って聞かせると、そりゃ植物に似ちゃ大変ですと絶叫《ぜっきょう》して以来、とうとう鼬ときまってしまったのである。
 鼬の町井さんはやがて紅白の梅を二枝|提《さ》げて帰って来た。白い方を蔵沢《ぞうたく》の竹の画《え》の前に挿《さ》して、紅《あか》い方は太い竹筒《たけづつ》の中に投げ込んだなり、袋戸《ふくろど》の上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白い香《か》をしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、明日《あした》はきっと御雑煮《おぞうに》が祝えるに違ないと云って余を慰めた。
 除夜《じょや》の夢は例年の通り枕の上に落ちた。こう云う大患に罹《かか》ったあげく、病院の人となって幾つの月を重ねた末、雑煮までここで祝うのかと考えると、頭の中にはアイロニーと云う羅馬字《ローマじ》が明らかに綴《つづ》られて見える。それにもかかわらず、感に堪《た》えぬ趣《おもむき》は少しも胸を刺さずに、四十四年の春は自《おの》ずから南向の縁から明け放れた。そうして町井さんの予言の通り形《かた》ばかりとは云いながら、小《ち》さい一切《ひときれ》の餅《もち》が元日らしく病人の眸《ひとみ》に映じた。余はこの一椀の雑煮に自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかも何等の詩味をも感ぜずに、小さな餅の片《きれ》を平凡にかつ一口に、ぐいと食ってしまった。
 二月の末になって、病室前の梅がちらほら咲き出す頃、余は医師の許《ゆるし》を得て、再び広い世界の人となった。ふり返って見ると、入院中に、余と運命の一角《いっかく》を同じくしながら、ついに広い世界を見る機会が来ないで亡《な》くなった人は少なくない。ある北国《ほっこく》の患者は入院以後病勢がしだいに募《つの》るので、附添《つきそい》の息子《むすこ》が心配して、大晦日《おおみそか》の夜《よ》になって、無理に郷里に連れて帰ったら、汽車がまだ先へ着かないうちに途中で死んでしまった。一間《ひとま》置いて隣りの人は自分で死期を自覚して、諦《あき》らめてしまえば死ぬと云う事は何でもないものだと云って、気の毒なほどおとなしい往生を遂げた。向うの外《はず》れにいた潰瘍患者《かいようかんじゃ》の高い咳嗽《せき》が日《ひ》ごとに薄らいで行くので、大方落ちついたのだろうと思って町井さんに尋ねて見ると、衰弱の結果いつの間にか死んでいた。そうかと思うと、癌《がん》で見込のない病人の癖に、から景気をつけて、回診の時に医師の顔を見るや否や、すぐ起き直って尻《しり》を捲《まく》るというのがあった。附添の女房を蹴《け》たり打《ぶ》ったりするので、女房が洗面所へ来て泣いているのを、看護婦が見兼《みかね》て慰めていましたと町井さんが話した事も覚えている。ある食道狭窄《しょくどうきょうさく》の患者は病院には這入《はい》っているようなものの迷いに迷い抜いて、灸点師《きゅうてんし》を連れて来て灸を据《す》えたり、海草《かいそう》を採《と》って来て煎《せん》じて飲んだりして、ひたすら不治の癌症《がんしょう》を癒《なお》そうとしていた。……
 余はこれらの人と、一つ屋根の下に寝て、一つ賄《まかない》の給仕を受けて、同じく一つ春を迎えたのである。退院後一カ月|余《よ》の今日《こんにち》になって、過去を一攫《ひとつかみ》にして、眼の前に並べて見ると、アイロニーの一語はますます鮮やかに頭の中に拈出《ねんしゅつ》される。そうしていつの間にかこのアイロニーに一種の実感が伴って、両《ふた》つのものが互に纏綿《てんめん》して来た。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、雑煮《ぞうに》も、――あらゆる尋常の景趣はことごとく消えたのに、ただ当時の自分と今の自分との対照だけがはっきりと残るためだろうか。



底本:「夏目漱石全集7」ちくま文庫、筑摩書房
   1988(昭和63年)年4月26日第1刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版夏目漱石全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年4月〜1972(昭和47)年1月
入力:柴田卓治
校正:伊藤時也
1999年6月26日公開
2004年2月26日修正
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