さぼ》り得《う》る今の身の嬉しさが、この五十六字に形を変じたのである。
 もっとも趣《おもむき》から云えばまことに旧《ふる》い趣である。何の奇もなく、何の新もないと云ってもよい。実際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもショウでもない。その代りこの趣は彼ら作家のいまだかつて知らざる興味に属している。また彼らのけっして与《あず》からざる境地に存している。現今《げんこん》の吾《われ》らが苦しい実生活に取り巻かれるごとく、現今の吾等が苦しい文学に取りつかれるのも、やむをえざる悲しき事実ではあるが、いわゆる「現代的気風」に煽《あお》られて、三百六十五日の間、傍目《わきめ》もふらず、しかく人世を観《かん》じたら、人世は定めし窮屈でかつ殺風景なものだろう。たまにはこんな古風の趣がかえって一段の新意《しんい》を吾らの内面生活上に放射するかも知れない。余は病《やまい》に因《よ》ってこの陳腐《ちんぷ》な幸福と爛熟《らんじゅく》な寛裕《くつろぎ》を得て、初めて洋行から帰って平凡な米の飯に向った時のような心持がした。
「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。ようやく生き残って東京に帰った余は、病に因って纔《わず》かに享《う》けえたこの長閑《のどか》な心持を早くも失わんとしつつある。まだ床《とこ》を離れるほどに足腰が利《き》かないうちに、三山君に遺った詩が、すでにこの太平の趣をうたうべき最後の作ではなかろうかと、自分ながら掛念《けねん》しているくらいである。「思い出す事など」は平凡で低調な個人の病中における述懐《じゅっかい》と叙事に過ぎないが、その中《うち》にはこの陳腐《ちんぷ》ながら払底《ふってい》な趣《おもむき》が、珍らしくだいぶ這入《はい》って来るつもりであるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新らしい人々と今の苦しい人々と共に、この古い香《かおり》を懐《なつ》かしみたいと思う。

        五

 修善寺《しゅぜんじ》にいる間は仰向《あおむけ》に寝たままよく俳句を作っては、それを日記の中に記《つ》け込《こ》んだ。時々は面倒な平仄《ひょうそく》を合わして漢詩さえ作って見た。そうしてその漢詩も一つ残らず未定稿《みていこう》として日記の中に書きつけた。
 余は年来俳句に疎《うと》くなりまさった者である。漢詩に至っては、ほとんど当初からの門外漢と云ってもいい。詩にせよ句にせよ、病中にでき上ったものが、病中の本人にはどれほど得意であっても、それが専門家の眼に整って(ことに現代的に整って)映るとは無論思わない。
 けれども余が病中に作り得た俳句と漢詩の価値は、余自身から云うと、全くその出来不出来に関係しないのである。平生《へいぜい》はいかに心持の好くない時でも、いやしくも塵事《じんじ》に堪《た》え得るだけの健康をもっていると自信する以上、またもっていると人から認められる以上、われは常住日夜《じょうじゅうにちや》共に生存競争裏《せいぞんきょうそうり》に立つ悪戦の人である。仏語《ぶつご》で形容すれば絶えず火宅《かたく》の苦《く》を受けて、夢の中でさえいらいらしている。時には人から勧められる事もあり、たまには自《みずか》ら進む事もあって、ふと十七字を並べて見たりまたは起承転結《きしょうてんけつ》の四句ぐらい組み合せないとも限らないけれどもいつもどこかに間隙《すき》があるような心持がして、隈《くま》も残さず心を引《ひ》き包《くる》んで、詩と句の中に放り込む事ができない。それは歓楽を嫉《ねた》む実生活の鬼の影が風流に纏《まつわ》るためかも知れず、または句に熱し詩に狂するのあまり、かえって句と詩に翻弄《ほんろう》されて、いらいらすまじき風流にいらいらする結果かも知れないが、それではいくら佳句《かく》と好詩《こうし》ができたにしても、贏《か》ち得《う》る当人の愉快はただ二三|同好《どうこう》の評判だけで、その評判を差し引くと、後《あと》に残るものは多量の不安と苦痛に過ぎない事に帰着してしまう。
 ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他《ひと》も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには一人前《いちにんまえ》働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない長閑《のど》かな春がその間から湧《わ》いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、出来栄《できばえ》の如何《いかん》はまず措《お》いて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい貴《とうと》いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を紛《まぎ》らすため、閑《かん》に強《し》いられた仕事ではない。実生活の圧迫
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