人に謝すべき余はただ一人生き残っている。
菊の雨われに閑《かん》ある病《やまい》哉《かな》
菊の色|縁《えん》に未《いまだ》し此《この》晨《あした》
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(ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どう面白いかここに詳説する余地がないのは余の遺憾《いかん》とするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題は Time and Free Will(時と自由意思)と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派である。)
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四
病《やまい》の重かった時は、固《もと》よりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変って行った。自分にもわが心の水のように流れ去る様がよく分った。自白すれば雲と同じくかつ去《さ》りかつ来《きた》るわが脳裡《のうり》の現象は、極《きわ》めて平凡なものであった。それも自覚していた。生涯《しょうがい》に一度か二度の大患に相応するほどの深さも厚さもない経験を、恥《はじ》とも思わず無邪気に重ねつつ移って行くうちに、それでも他日の参考に日ごとの心を日ごとに書いておく事ができたならと思い出した。その時の余は無論手が利《き》かなかった。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。そうして余の頭を掠《かす》めて去《さ》る心の波紋《はもん》は、随《したが》って起《おこ》るかと思えば随《したが》って消えてしまった。余は薄ぼけて微《かす》かに遠きに行くわが記憶の影を眺めては、寝ながらそれを呼び返したいような心持がした。ミュンステルベルグと云う学者の家に賊が入った引合《ひきあい》で、他日彼が法庭《ほうてい》へ呼び出されたとき、彼の陳述はほとんど事実に相違する事ばかりであったと云う話がある。正確を旨《むね》とする几帳面《きちょうめん》な学者の記憶でも、記憶はこれほどに不慥《ふたしか》なものである。「思い出す事など」の中に思い出す事が、日を経《ふ》れば経るに従って色彩を失うのはもちろんである。
わが手の利《き》かぬ先にわが失えるものはすでに多い。わが手筆を持つの力を得てより逸《いっ》するものまた少からずと云っても嘘《うそ》にはならない。わが病気の経過と、病気の経過に伴《つ》れて起る内面の生活とを、不秩序ながら断片的にも叙しておきたいと思い立ったのはこれがためである。友人のうちには、もうそれほど好くなったかと喜んでくれたものもある。あるいはまたあんな軽挙《かるはずみ》をしてやり損《そこ》なわなければいいがと心配してくれたものもある。
その中で一番|苦《にが》い顔をしたのは池辺三山君《いけべさんざんくん》であった。余が原稿を書いたと聞くや否や、たちまち余計な事だと叱りつけた。しかもその声はもっとも無愛想《ぶあいそう》な声であった。医者の許可を得たのだから、普通の人の退屈凌《たいくつしの》ぎぐらいなところと見たらよかろうと余は弁解した。医者の許可もさる事だが、友人の許可を得なければいかんと云うのが三山君の挨拶《あいさつ》であった。それから二三日して三山君が宮本博士に会ってこの話をすると、博士は、なるほど退屈をすると胃に酸《さん》が湧《わ》く恐れがあるからかえって悪いだろうと調停してくれたので、余はようやく助かった。
その時余は三山君に、
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遺却新詩無処尋[#「遺却新詩無処尋」に白丸傍点]。 ※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]然隔※[#「片+(戸+甫)」、第3水準1−87−69]対遥林[#「※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]然隔※[#「片+(戸+甫)」、第3水準1−87−69]対遥林」に白丸傍点]。
斜陽満径照僧遠[#「斜陽満径照僧遠」に白丸傍点]。 黄葉一村蔵寺深[#「黄葉一村蔵寺深」に白丸傍点]。
懸偈壁間焚仏意[#「懸偈壁間焚仏意」に白丸傍点]。 見雲天上抱琴心[#「見雲天上抱琴心」に白丸傍点]。
人間至楽江湖老[#「人間至楽江湖老」に白丸傍点]。 犬吠鶏鳴共好音[#「犬吠鶏鳴共好音」に白丸傍点]。
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と云う詩を遺《おく》った。巧拙《こうせつ》は論外として、病院にいる余が窓から寺を望む訳もなし、また室内に琴《こと》を置く必要もないから、この詩は全くの実況に反しているには違《ちがい》ないが、ただ当時の余の心持を咏《えい》じたものとしてはすこぶる恰好《かっこう》である。宮本博士が退屈をすると酸《さん》がたまると云ったごとく、忙殺《ぼうさつ》されて酸が出過ぎる事も、余は親しく経験している。詮《せん》ずるところ、人間は閑適《かんてき》の境界《きょうがい》に立たなくては不幸だと思うので、その閑適をしばらくなりとも貪《む
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