ほど応用の範囲の狭いものになる。それを一般に行《ゆ》き亘《わた》って実行のできる大主義のごとくに説き去る彼は、学者の通弊として統一病に罹《かか》ったのだと酷評を加えてもよいが、たまたま文芸を好んで文芸を職業としながら、同時に職業としての文芸を忌《い》んでいる余のごときものの注意を呼び起して、その批評心を刺戟《しげき》する力は充分ある。大患に罹《かか》った余は、親の厄介になった子供の時以来久しぶりで始めてこの精神生活の光に浴した。けれどもそれはわずか一二カ月の中であった。病《やまい》が癒《なお》るに伴《つ》れ、自己がしだいに実世間に押し出されるに伴れ、こう云う議論を公けにして得意なオイッケンを羨《うら》やまずにはいられなくなって来た。
二十八
学校を出た当時小石川のある寺に下宿をしていた事がある。そこの和尚《おしょう》は内職に身の上判断をやるので、薄暗い玄関の次の間に、算木《さんぎ》と筮竹《ぜいちく》を見るのが常であった。固《もと》より看板をかけての公表《おもてむき》な商買《しょうばい》でなかったせいか、占《うらない》を頼《たのみ》に来るものは多くて日に四五人、少ない時はまるで筮竹を揉《も》む音さえ聞えない夜もあった。易断《えきだん》に重きを置かない余は、固よりこの道において和尚と無縁の姿であったから、ただ折々|襖越《ふすまご》しに、和尚の、そりゃ当人の望み通りにした方が好うがすななどと云う縁談に関する助言《じょごん》を耳に挟《さしは》さむくらいなもので、面と向き合っては互に何も語らずに久しく過ぎた。
ある時何かのついでに、話がつい人相とか方位とか云う和尚の縄張《なわば》り内に摺《ず》り込《こ》んだので、冗談半分|私《わたし》の未来はどうでしょうと聞いて見たら、和尚は眼を据《す》えて余の顔をじっと眺めた後《あと》で、大して悪い事もありませんなと答えた。大して悪い事もないと云うのは、大して好い事もないと云ったも同然で、すなわち御前の運命は平凡だと宣告したようなものである。余は仕方がないから黙っていた。すると和尚が、あなたは親の死目には逢《あ》えませんねと云った。余はそうですかと答えた。すると今度はあなたは西へ西へと行く相があると云った。余はまたそうですかと答えた。最後に和尚は、早く顋《あご》の下へ髯《ひげ》を生やして、地面を買って居宅《うち》を御建てなさいと勧めた。余は地面を買って居宅を建て得る身分なら何も君の所に厄介になっちゃいないと答えたかった。けれども顋の下の髯と、地面|居宅《やしき》とはどんな関係があるか知りたかったので、それだけちょっと聞き返して見た。すると和尚は真面目《まじめ》な顔をして、あなたの顔を半分に割ると上の方が長くって、下の方が短か過ぎる。したがって落ちつかない。だから早く顋髯を生やして上下の釣合《つりあい》を取るようにすれば、顔の居坐《いすわ》りがよくなって動かなくなりますと答えた。余は余の顔の雑作《ぞうさく》に向って加えられたこの物理的もしくは美学的の批判が、優に余の未来の運命を支配するかのごとく容易に説き去った和尚を少しおかしく感じた。そうしてなるほどと答えた。
一年ならずして余は松山に行った。それからまた熊本に移った。熊本からまた倫敦《ロンドン》に向った。和尚の云った通り西へ西へと赴《おもむ》いたのである。余の母は余の十三四の時に死んだ。その時は同じ東京におりながら、つい臨終の席には侍《はんべ》らなかった。父の死んだ電報を東京から受け取ったのは、熊本にいる頃の事であった。これで見ると、親の死目に逢《あ》えないと云った和尚の言葉もどうかこうか的中している。ただ顋《あご》の髯《ひげ》に至ってはその時から今日《こんにち》に至るまで、寧日《ねいじつ》なく剃《そ》り続けに剃っているから、地面と居宅《やしき》がはたして髯と共にわが手に入《い》るかどうかいまだに判然《はんぜん》せずにいた。
ところが修善寺《しゅぜんじ》で病気をして寝つくや否や、頬がざらざらし始めた。それが五六日すると一本一本に撮《つま》めるようになった。またしばらくすると、頬から顋《あご》が隙間《すきま》なく隠れるようになった。和尚《おしょう》の助言《じょごん》は十七八年ぶりで始めて役に立ちそうな気色《けしき》に髯は延びて来た。妻《さい》はいっそ御生《おは》やしなすったら好いでしょうと云った。余も半分その気になって、しきりにその辺を撫《な》で廻していた。ところが幾日《いくか》となく洗いも櫛《くしけ》ずりもしない髪が、膏《あぶら》と垢《あか》で余の頭を埋《うず》め尽《つ》くそうとする汚苦《むさくる》しさに堪《た》えられなくなって、ある日床屋を呼んで、不充分ながら寝たまま頭に手を入れて顔に髪剃《かみそり》を当てた。その時地面
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