いに余の病床に近づくのを恐れた。東君《ひがしくん》はわざわざ妻《さい》の所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のように始終《しじゅう》食物《くいもの》の話ばかりしていておかしいと告げた。
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腸《はらわた》に春|滴《したた》るや粥の味
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        二十七

 オイッケンは精神生活と云う事を真向《まむき》に主張する学者である。学者の習慣として、自己の説を唱《とな》うる前には、あらゆる他のイズムを打破する必要を感ずるものと見えて、彼は彼のいわゆる精神生活を新たならしむるため、その用意として、現代生活に影響を与うる在来からの処生上の主義に一も二もなく非難を加えた。自然主義もやられる、社会主義も叩《たた》かれる。すべての主義が彼の眼から見て存在の権利を失ったかのごとくに説き去られた時、彼は始めて精神生活の四字を拈出《ねんしゅつ》した。そうして精神生活の特色は自由である、自由であると連呼《れんこ》した。
 試みに彼に向って自由なる精神生活とはどんな生活かと問えば、端的《たんてき》にこんなものだとはけっして答えない。ただ立派な言葉を秩序よく並べ立てる。むずかしそうな理窟《りくつ》を蜿蜒《えんえん》と幾重《いくえ》にも重ねて行く。そこに学者らしい手際《てぎわ》はあるかも知れないが、とぐろの中に巻き込まれる素人《しろうと》は茫然《ぼんやり》してしまうだけである。
 しばらく哲学者の言葉を平民に解るように翻訳して見ると、オイッケンのいわゆる自由なる精神生活とは、こんなものではなかろうか。――我々は普通衣食のために働らいている。衣食のための仕事は消極的である。換言すると、自分の好悪《こうお》撰択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。そう云う風にほかから圧《お》しつけられた仕事では精神生活とは名づけられない。いやしくも精神的に生活しようと思うなら、義務なきところに向って自《みずか》ら進む積極のものでなければならない。束縛によらずして、己《おの》れ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。こう解釈した時、誰も彼の精神生活を評してつまらないとは云うまい。コムトは倦怠《アンニュイ》をもって社会の進歩を促《うな》がす原因と見たくらいである。倦怠の極やむをえずして仕事を見つけ出すよりも、内に抑《おさ》えがたき或るものが蟠《わだか》まって、じっと持《も》ち応《こた》えられない活力を、自然の勢から生命の波動として描出《びょうしゅつ》し来《きた》る方が実際|実《み》の入《い》った生《い》き法《かた》と云わなければなるまい。舞踏でも音楽でも詩歌《しいか》でも、すべて芸術の価値はここに存していると評しても差支《さしつか》えない。
 けれども学者オイッケンの頭の中で纏《まと》め上げた精神生活が、現に事実となって世の中に存在し得るや否やに至っては自《おのず》から別問題である。彼オイッケン自身が純一無雑に自由なる精神生活を送り得るや否やを想像して見ても分明《ぶんみょう》な話ではないか。間断なきこの種の生活に身を託せんとする前に、吾人は少なくとも早くすでに職業なき閑人として存在しなければならないはずである。
 豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心の機《はず》まないときはけっして豆を挽《ひ》かなかったなら商買《しょうばい》にはならない。さらに進んで、己《おの》れの好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおの事商買にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平の灯《ともし》を点《つ》けなければならない。公平と云う美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的と云う醜い本体を有しているに過ぎない。一分《いっぷん》の遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、正に両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端を七分三分《しちぶさんぶ》とか六分四分《ろくぶしぶ》とかに交《ま》ぜ合《あ》わして自己に便宜《べんぎ》なようにまた世間に都合の好いように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべく天《てん》から余儀なくされている。これが常態である。たまたま芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とするような場合ですら、その芸術が職業となる瞬間において、真の精神生活はすでに汚《けが》されてしまうのは当然である。芸術家としての彼は己《おの》れに篤《あつ》き作品を自然の気乗りで作り上げようとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、売高《うれだか》の多いものを公《おおや》けにしなくてはならぬからである。
 すでに個人の性格及び教育次第で融通の利《き》かなくなりそうなオイッケンのいわゆる自由なる精神生活は、現今の社会組織の上から見ても、これ
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