じた。自分が人に向ってぎごちなくふるまいつつあるにもかかわらず、自《みずか》らぎごちなく感じた。そうして病《やまい》に罹《かか》った。そうして病の重い間、このぎごちなさをどこへか忘れた。
 看護婦は五十グラムの粥《かゆ》をコップの中に入れて、それを鯛味噌《たいみそ》と混ぜ合わして、一匙《ひとさじ》ずつ自分の口に運んでくれた。余は雀《すずめ》の子か烏《からす》の子のような心持がした。医師は病の遠ざかるに連れて、ほとんど五日目ぐらいごとに、余のために食事の献立表《こんだてひょう》を作った。ある時は三通りも四通りも作って、それを比較して一番病人に好さそうなものを撰《えら》んで、あとはそれぎり反故《ほご》にした。
 医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが故《ゆえ》に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、実《み》も葢《ふた》もない話である。けれども彼等の義務の中《うち》に、半分の好意を溶《と》き込《こ》んで、それを病人の眼から透《す》かして見たら、彼等の所作《しょさ》がどれほど尊《たっ》とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して独《ひと》りで嬉《うれ》しかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。
 子供と違って大人《たいじん》は、なまじい一つの物を十筋《とすじ》二十筋の文《あや》からできたように見窮《みきわ》める力があるから、生活の基礎となるべき純潔な感情を恣《ほしい》ままに吸収する場合が極《きわ》めて少ない。本当に嬉しかった、本当にありがたかった、本当に尊《たっと》かったと、生涯《しょうがい》に何度思えるか、勘定《かんじょう》すれば幾何《いくばく》もない。たとい純潔でなくても、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓の真中《まんなか》に保存したいと願っている。そうしてこの感情が遠からず単に一片《いっぺん》の記憶と変化してしまいそうなのを切《せつ》に恐れている。――好意の干乾《ひから》びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感ずるからである。
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天下自多事[#「天下自多事」に白丸傍点]。 被吹天下風[#「被吹天下風」に白丸傍点]。 高秋悲鬢白[
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