子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、※[#「煢−冖」、第4水準2−79−80]然《けいぜん》として独《ひと》りその間に老ゆるものは、見惨《みじめ》と評するよりほかに評しようがない。
 古臭い愚痴《ぐち》を繰返すなという声がしきりに聞えた。今でも聞える。それを聞き捨てにして、古臭い愚痴を繰返すのは、しみじみそう感じたからばかりではない、しみじみそう感じた心持を、急に病気が来て顛覆《くつがえ》したからである。
 血を吐いた余は土俵の上に仆《たお》れた相撲と同じ事であった。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただ仰向《あおむ》けに寝て、わずかな呼吸《いき》をあえてしながら、怖《こわ》い世間を遠くに見た。病気が床の周囲《ぐるり》を屏風《びょうぶ》のように取り巻いて、寒い心を暖かにした。
 今までは手を打たなければ、わが下女さえ顔を出さなかった。人に頼まなければ用は弁じなかった。いくらしようと焦慮《あせ》っても、調《ととの》わない事が多かった。それが病気になると、がらりと変った。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。妻《さい》が来た。しまいには看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。
「安心して療養せよ」と云う電報が満洲から、血を吐いた翌日に来た。思いがけない知己《ちき》や朋友が代る代る枕元《まくらもと》に来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またあるものは眼の前に逼《せま》る結婚を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病気を知って来たと云った。仰向《あおむけ》に寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。住《す》み悪《にく》いとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。
 四十を越した男、自然に淘汰《とうた》せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、忙《いそが》しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、病《やまい》に生き還《かえ》ると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間にな
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