医師に絶えず握られていた。その二人は眼を閉じている余を中に挟《はさ》んで下《しも》のような話をした(その単語はことごとく独逸語《ドイツご》であった)。
「弱い」
「ええ」
「駄目だろう」
「ええ」
「子供に会わしたらどうだろう」
「そう」
 今まで落ちついていた余はこの時急に心細くなった。どう考えても余は死にたくなかったからである。またけっして死ぬ必要のないほど、楽な気持でいたからである。医師が余を昏睡《こんすい》の状態にあるものと思い誤って、忌憚《きたん》なき話を続けているうちに、未練《みれん》な余は、瞑目《めいもく》不動の姿勢にありながら、半《なかば》無気味な夢に襲われていた。そのうち自分の生死に関する斯様《かよう》に大胆な批評を、第三者として床の上にじっと聞かせられるのが苦痛になって来た。しまいには多少腹が立った。徳義上もう少しは遠慮してもよさそうなものだと思った。ついに先がそう云う料簡《りょうけん》ならこっちにも考えがあるという気になった。――人間が今死のうとしつつある間際《まぎわ》にも、まだこれほどに機略を弄《ろう》し得るものかと、回復期に向った時、余はしばしば当夜の反抗心を思い出しては微笑《ほほえ》んでいる。――もっとも苦痛が全く取れて、安臥《あんが》の地位を平静に保っていた余には、充分それだけの余裕があったのであろう。
 余は今まで閉じていた眼を急に開けた。そうしてできるだけ大きな声と明暸《めいりょう》な調子で、私《わたし》は子供などに会いたくはありませんと云った。杉本さんは何事をも意に介せぬごとく、そうですかと軽く答えたのみであった。やがて食いかけた食事を済まして来るとか云って室《へや》を出て行った。それからは左右の手を左右に開いて、その一つずつを森成さんと雪鳥君に握られたまま、三人とも無言のうちに天明に達した。
[#ここから2字下げ]
冷やかな脈を護《まも》りぬ夜明方《よあけがた》
[#ここで字下げ終わり]

        十五

 強《し》いて寝返《ねがえ》りを右に打とうとした余と、枕元の金盥《かなだらい》に鮮血を認めた余とは、一分《いちぶ》の隙《すき》もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛《かみげ》を挟《はさ》む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経《へ》て妻《さい》から、そうじゃありません、あの時三十分
前へ 次へ
全72ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
夏目 漱石 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング