ら断片的にも叙しておきたいと思い立ったのはこれがためである。友人のうちには、もうそれほど好くなったかと喜んでくれたものもある。あるいはまたあんな軽挙《かるはずみ》をしてやり損《そこ》なわなければいいがと心配してくれたものもある。
その中で一番|苦《にが》い顔をしたのは池辺三山君《いけべさんざんくん》であった。余が原稿を書いたと聞くや否や、たちまち余計な事だと叱りつけた。しかもその声はもっとも無愛想《ぶあいそう》な声であった。医者の許可を得たのだから、普通の人の退屈凌《たいくつしの》ぎぐらいなところと見たらよかろうと余は弁解した。医者の許可もさる事だが、友人の許可を得なければいかんと云うのが三山君の挨拶《あいさつ》であった。それから二三日して三山君が宮本博士に会ってこの話をすると、博士は、なるほど退屈をすると胃に酸《さん》が湧《わ》く恐れがあるからかえって悪いだろうと調停してくれたので、余はようやく助かった。
その時余は三山君に、
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遺却新詩無処尋[#「遺却新詩無処尋」に白丸傍点]。 ※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]然隔※[#「片+(戸+甫)」、第3水準1−87−69]対遥林[#「※[#「口+荅」、第4水準2−4−16]然隔※[#「片+(戸+甫)」、第3水準1−87−69]対遥林」に白丸傍点]。
斜陽満径照僧遠[#「斜陽満径照僧遠」に白丸傍点]。 黄葉一村蔵寺深[#「黄葉一村蔵寺深」に白丸傍点]。
懸偈壁間焚仏意[#「懸偈壁間焚仏意」に白丸傍点]。 見雲天上抱琴心[#「見雲天上抱琴心」に白丸傍点]。
人間至楽江湖老[#「人間至楽江湖老」に白丸傍点]。 犬吠鶏鳴共好音[#「犬吠鶏鳴共好音」に白丸傍点]。
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と云う詩を遺《おく》った。巧拙《こうせつ》は論外として、病院にいる余が窓から寺を望む訳もなし、また室内に琴《こと》を置く必要もないから、この詩は全くの実況に反しているには違《ちがい》ないが、ただ当時の余の心持を咏《えい》じたものとしてはすこぶる恰好《かっこう》である。宮本博士が退屈をすると酸《さん》がたまると云ったごとく、忙殺《ぼうさつ》されて酸が出過ぎる事も、余は親しく経験している。詮《せん》ずるところ、人間は閑適《かんてき》の境界《きょうがい》に立たなくては不幸だと思うので、その閑適をしばらくなりとも貪《む
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