ょっと借せ。書き落としたところがある」
 与次郎は三四郎のノートを引き寄せて上からのぞきこんだ。stray《ストレイ》 sheep《シープ》 という字がむやみに書いてある。
「なんだこれは」
「講義を筆記するのがいやになったから、いたずらを書いていた」
「そう不勉強ではいかん。カントの超絶唯心論がバークレーの超絶実在論にどうだとか言ったな」
「どうだとか言った」
「聞いていなかったのか」
「いいや」
「まるで stray《ストレイ》 sheep《シープ》 だ。しかたがない」
 与次郎は自分のノートをかかえて立ち上がった。机の前を離れながら、三四郎に、
「おいちょっと来い」と言う。三四郎は与次郎について教室を出た。梯子段《はしごだん》を降りて、玄関前の草原へ来た。大きな桜がある。二人《ふたり》はその下にすわった。
 ここは夏の初めになると苜蓿《うまごやし》が一面にはえる。与次郎が入学願書を持って事務へ来た時に、この桜の下に二人の学生が寝転んでいた。その一人《ひとり》が一人に向かって、口答試験を都々逸《どどいつ》で負けておいてくれると、いくらでも歌ってみせるがなと言うと、一人が小声で、粋《
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