調子は少しもなかった。
 三四郎はいまさら自分の言葉を冗談にすることもできず、またまじめにすることもできなくなった。どっちにしても、よし子から軽蔑《けいべつ》されそうである。三四郎は絵をながめながら、腹の中で赤面した。
 椽側から座敷を見回すと、しんと静かである。茶の間はむろん、台所にも人はいないようである。
「おっかさんはもうお国へお帰りになったんですか」
「まだ帰りません。近いうちに立つはずですけれど」
「今、いらっしゃるんですか」
「今ちょっと買物に出ました」
「あなたが里見さんの所へお移りになるというのは本当ですか」
「どうして」
「どうしてって――このあいだ広田先生の所でそんな話がありましたから」
「まだきまりません。ことによると、そうなるかもしれませんけれど」
 三四郎は少しく要領を得た。
「野々宮さんはもとから里見さんと御懇意なんですか」
「ええ。お友だちなの」
 男と女の友だちという意味かしらと思ったが、なんだかおかしい。けれども三四郎はそれ以上を聞きえなかった。
「広田先生は野々宮さんのもとの先生だそうですね」
「ええ」
 話は「ええ」でつかえた。
「あなたは里見さん
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