リって床屋へ行った。そのあくる日は日曜である。
朝飯後、シャツを重ねて、外套《がいとう》を着て、寒くないようにして美禰子の家へ行った。玄関によし子が立って、今|沓脱《くつぬぎ》へ降りようとしている。今兄の所へ行くところだと言う。美禰子はいない。三四郎はいっしょに表へ出た。
「もうすっかりいいんですか」
「ありがとう。もう直りました。――里見さんはどこへ行ったんですか」
「にいさん?」
「いいえ、美禰子さんです」
「美禰子さんは会堂《チャーチ》」
美禰子の会堂へ行くことは、はじめて聞いた。どこの会堂か教えてもらって、三四郎はよし子に別れた。横町を三つほど曲がると、すぐ前へ出た。三四郎はまったく耶蘇教《やそきょう》に縁のない男である。会堂の中はのぞいて見たこともない。前へ立って、建物をながめた。説教の掲示を読んだ。鉄柵《てっさく》の所を行ったり来たりした。ある時は寄りかかってみた。三四郎はともかくもして、美禰子の出てくるのを待つつもりである。
やがて唱歌の声が聞こえた。賛美歌《さんびか》というものだろうと考えた。締め切った高い窓のうちのでき事である。音量から察するとよほどの人数らしい。美禰子の声もそのうちにある。三四郎は耳を傾けた。歌はやんだ。風が吹く。三四郎は外套の襟《えり》を立てた。空に美禰子の好きな雲が出た。
かつて美禰子といっしょに秋の空を見たこともあった。所は広田先生の二階であった。田端《たばた》の小川の縁《ふち》にすわったこともあった。その時も一人ではなかった。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。雲が羊の形をしている。
忽然《こつぜん》として会堂の戸が開いた。中から人が出る。人は天国から浮世《うきよ》へ帰る。美禰子は終りから四番目であった。縞《しま》の吾妻《あずま》コートを着て、うつ向いて、上り口の階段を降りて来た。寒いとみえて、肩をすぼめて、両手を前で重ねて、できるだけ外界との交渉を少なくしている。美禰子はこのすべてにあがらざる態度を門ぎわまで持続した。その時、往来の忙しさに、はじめて気がついたように顔を上げた。三四郎の脱いだ帽子の影が、女の目に映った。二人は説教の掲示のある所で、互いに近寄った。
「どうなすって」
「今お宅までちょっと出たところです」
「そう、じゃいらっしゃい」
女はなかば歩をめぐらしかけた。相変らず低い下駄《げた》をはいている。男はわざと会堂の垣《かき》に身を寄せた。
「ここでお目にかかればそれでよい。さっきから、あなたの出て来るのを待っていた」
「おはいりになればよいのに。寒かったでしょう」
「寒かった」
「お風邪はもうよいの。大事になさらないと、ぶり返しますよ。まだ顔色がよくないようね」
男は返事をしずに、外套の隠袋《かくし》から半紙に包んだものを出した。
「拝借した金です。ながながありがとう。返そう返そうと思って、ついおそくなった」
美禰子はちょっと三四郎の顔を見たが、そのまま逆らわずに、紙包みを受け取った。しかし手に持ったなり、しまわずにながめている。三四郎もそれをながめている。言葉が少しのあいだ切れた。やがて、美禰子が言った。
「あなた、御不自由じゃなくって」
「いいえ、このあいだからそのつもりで国から取り寄せておいたのだから、どうか取ってください」
「そう。じゃいただいておきましょう」
女は紙包みを懐へ入れた。その手を吾妻コートから出した時、白いハンケチを持っていた。鼻のところへあてて、三四郎を見ている。ハンケチをかぐ様子でもある。やがて、その手を不意に延ばした。ハンケチが三四郎の顔の前へ来た。鋭い香《かおり》がぷんとする。
「ヘリオトロープ」と女が静かに言った。三四郎は思わず顔をあとへ引いた。ヘリオトロープの罎《びん》。四丁目の夕暮。迷羊《ストレイ・シープ》。迷羊《ストレイ・シープ》。空には高い日が明らかにかかる。
「結婚なさるそうですね」
美禰子は白いハンケチを袂《たもと》へ落とした。
「御存じなの」と言いながら、二重瞼《ふたえまぶた》を細目にして、男の顔を見た。三四郎を遠くに置いて、かえって遠くにいるのを気づかいすぎた目つきである。そのくせ眉《まゆ》だけははっきりおちついている。三四郎の舌が上顎《うわあご》へひっついてしまった。
女はややしばらく三四郎をながめたのち、聞きかねるほどのため息をかすかにもらした。やがて細い手を濃い眉の上に加えて言った。
「我はわが愆《とが》を知る。わが罪は常にわが前にあり」
聞き取れないくらいな声であった。それを三四郎は明らかに聞き取った。三四郎と美禰子はかようにして別れた。下宿へ帰ったら母からの電報が来ていた。あけて見ると、いつ立つとある。
一三
原口さんの絵はでき上がった。丹青会はこれを
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