「野々宮さんの所か」
「いや、野々宮さんじゃない」
「じゃ……」と言いかけてやめた。
「君、知ってるのか」
「知らない」と言い切った。すると与次郎が少し前へ乗り出してきた。
「どうもよくわからない。不思議な事があるんだが。もう少したたないと、どうなるんだか見当がつかない」
 三四郎は、その不思議な事を、すぐ話せばいいと思うのに、与次郎は平気なもので、一人でのみこんで、一人で不思議がっている。三四郎はしばらく我慢していたが、とうとう焦《じ》れったくなって、与次郎に、美禰子に関するすべての事実を隠さずに話してくれと請求した。与次郎は笑いだした。そうして慰謝のためかなんだか、とんだところへ話頭を持っていってしまった。
「ばかだなあ、あんな女を思って。思ったってしかたがないよ。第一、君と同年《おないどし》ぐらいじゃないか。同年ぐらいの男にほれるのは昔の事だ。八百屋《やおや》お七《しち》時代の恋だ」
 三四郎は黙っていた。けれども与次郎の意味はよくわからなかった。
「なぜというに。二十《はたち》前後の同じ年の男女《なんにょ》を二人並べてみろ。女のほうが万事|上手《うわて》だあね。男は馬鹿にされるばかりだ。女だって、自分の軽蔑《けいべつ》する男の所へ嫁へ行く気は出ないやね。もっとも自分が世界でいちばん偉いと思ってる女は例外だ。軽蔑する所へ行かなければ独身で暮らすよりほかに方法はないんだから。よく金持ちの娘や何かにそんなのがあるじゃないか、望んで嫁に来ておきながら、亭主を軽蔑しているのが。美禰子さんはそれよりずっと偉い。その代り、夫として尊敬のできない人の所へははじめから行く気はないんだから、相手になるものはその気でいなくっちゃいけない。そういう点で君だのぼくだのは、あの女の夫になる資格はないんだよ」
 三四郎はとうとう与次郎といっしょにされてしまった。しかし依然として黙っていた。
「そりゃ君だって、ぼくだって、あの女よりはるかに偉いさ。お互いにこれでも、なあ。けれども、もう五、六年たたなくっちゃ、その偉さ加減がかの女の目に映ってこない。しかして、かの女は五、六年じっとしている気づかいはない。したがって、君があの女と結婚する事は風馬牛《ふうばぎゅう》だ」
 与次郎は風馬牛という熟字を妙なところへ使った。そうして一人で笑っている。
「なに、もう五、六年もすると、あれより、ずっと上等なのが、あらわれて来るよ。日本《にほん》じゃ今女のほうが余っているんだから。風邪なんか引いて熱を出したってはじまらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。じつはぼくにもいろいろあるんだが、ぼくのほうであんまりうるさいから、御用で長崎へ出張すると言ってね」
「なんだ、それは」
「なんだって、ぼくの関係した女さ」
 三四郎は驚いた。
「なに、女だって、君なんぞのかつて近寄ったことのない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌《ばいきん》の試験に出張するから当分だめだって断わっちまった。ところがその女が林檎《りんご》を持って停車場《ステーション》まで送りに行くと言いだしたんで、ぼくは弱ったね」
 三四郎はますます驚いた。驚きながら聞いた。
「それで、どうした」
「どうしたか知らない。林檎を持って、停車場に待っていたんだろう」
「ひどい男だ。よく、そんな悪い事ができるね」
「悪い事で、かあいそうな事だとは知ってるけれども、しかたがない。はじめから次第次第に、そこまで運命に持っていかれるんだから。じつはとうのさきからぼくが医科の学生になっていたんだからなあ」
「なんで、そんなよけいな嘘《うそ》をつくんだ」
「そりゃ、またそれぞれの事情のあることなのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困ったこともある」
 三四郎はおかしくなった。
「その時は舌を見て、胸をたたいて、いいかげんにごまかしたが、その次に病院へ行って、見てもらいたいがいいかと聞かれたには閉口した」
 三四郎はとうとう笑いだした。与次郎は、
「そういうこともたくさんあるから、まあ安心するがよかろう」と言った。なんの事だかわからない。しかし愉快になった。
 与次郎はその時はじめて、美禰子に関する不思議を説明した。与次郎の言うところによると、よし子にも結婚の話がある。それから美禰子にもある。それだけならばいいが、よし子の行く所と、美禰子の行く所が、同じ人らしい。だから不思議なのだそうだ。
 三四郎も少しばかにされたような気がした。しかしよし子の結婚だけはたしかである。現に自分がその話をそばで聞いていた。ことによるとその話を美禰子のと取り違えたのかもしれない。けれども美禰子の結婚も、まったく嘘ではないらしい。三四郎ははっきりしたところが知りたくなった。ついでだから、与次郎に教えてくれと頼んだ。与次郎はわけなく
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