フ上に置いた。マッチと灰皿《はいざら》がのっている。椅子《いす》もある。
「かけたまえ。――あれだ」と言って、かきかけた画布《カンバス》の方を見た。長さは六尺もある。三四郎はただ、
「なるほど大きなものですな」と言った。原口さんは、耳にも留めないふうで、
「うん、なかなか」とひとりごとのように、髪の毛と、背景の境の所を塗りはじめた。三四郎はこの時ようやく美禰子の方を見た。すると女のかざした団扇の陰で、白い歯がかすかに光った。
 それから二、三分はまったく静かになった。部屋は暖炉《だんろ》で暖めてある。きょうは外面《そと》でも、そう寒くはない。風は死に尽した。枯れた木が音なく冬の日に包まれて立っている。三四郎は画室へ導かれた時、霞《かすみ》の中へはいったような気がした。丸テーブルに肱《ひじ》を持たして、この静かさの夜にまさる境に、はばかりなき精神《こころ》をおぼれしめた。この静かさのうちに、美禰子がいる。美禰子の影が次第にでき上がりつつある。肥《ふと》った画工の画筆《ブラッシ》だけが動く。それも目に動くだけで、耳には静かである。肥った画工も動くことがある。しかし足音はしない。
 静かなものに封じ込められた美禰子はまったく動かない。団扇をかざして立った姿そのままがすでに絵である。三四郎から見ると、原口さんは、美禰子を写しているのではない。不可思議に奥行きのある絵から、精出して、その奥行きだけを落として、普通の絵に美禰子を描き直しているのである。にもかかわらず第二の美禰子は、この静かさのうちに、次第と第一に近づいてくる。三四郎には、この二人の美禰子の間に、時計の音に触れない、静かな長い時間が含まれているように思われた。その時間が画家の意識にさえ上らないほどおとなしくたつにしたがって、第二の美禰子がようやく追いついてくる。もう少しで双方《そうほう》がぴたりと出合って一つに収まるというところで、時の流れが急に向きを換えて永久の中に注いでしまう。原口さんの画筆《ブラッシ》はそれより先には進めない。三四郎はそこまでついて行って、気がついて、ふと美禰子を見た。美禰子は依然として動かずにいる。三四郎の頭はこの静かな空気のうちで覚えず動いていた。酔った心持ちである。すると突然原口さんが笑いだした。
「また苦しくなったようですね」
 女はなんにも言わずに、すぐ姿勢をくずして、そばに置いた安楽椅子へ落ちるようにとんと腰をおろした。その時白い歯がまた光った。そうして動く時の袖とともに三四郎を見た。その目は流星のように三四郎の眉間《みけん》を通り越していった。
 原口さんは丸テーブルのそばまで来て、三四郎に、
「どうです」と言いながら、マッチをすってさっきのパイプに火をつけて、再び口にくわえた。大きな木の雁首《がんくび》を指でおさえて、二吹きばかり濃い煙を髭の中から出したが、やがてまた丸い背中を向けて絵に近づいた。かってなところを自由に塗っている。
 絵はむろん仕上がっていないものだろう。けれどもどこもかしこもまんべんなく絵の具が塗ってあるから、素人《しろうと》の三四郎が見ると、なかなかりっぱである。うまいかまずいかむろんわからない。技巧の批評のできない三四郎には、ただ技巧のもたらす感じだけがある。それすら、経験がないから、すこぶる正鵠《せいこう》を失しているらしい。芸術の影響に全然無頓着な人間でないとみずからを証拠立てるだけでも三四郎は風流人である。
 三四郎が見ると、この絵はいったいにぱっとしている。なんだかいちめんに粉《こ》が吹いて、光沢《つや》のない日光《ひ》にあたったように思われる。影の所でも黒くはない。むしろ薄い紫が射している。三四郎はこの絵を見て、なんとなく軽快な感じがした。浮いた調子は猪牙船《ちょきぶね》に乗った心持ちがある。それでもどこかおちついている。けんのんでない。苦《にが》ったところ、渋ったところ、毒々しいところはむろんない。三四郎は原口さんらしい絵だと思った。すると原口さんは無造作《むぞうさ》に画筆を使いながら、こんなことを言う。
「小川さんおもしろい話がある。ぼくの知った男にね、細君がいやになって離縁を請求した者がある。ところが細君が承知をしないで、私は縁あって、この家《うち》へかたづいたものですから、たといあなたがおいやでも私はけっして出てまいりません」
 原口さんはそこでちょっと絵を離れて、画筆の結果をながめていたが、今度は、美禰子に向かって、
「里見さん。あなたが単衣《ひとえもの》を着てくれないものだから、着物がかきにくくって困る。まるでいいかげんにやるんだから、少し大胆《だいたん》すぎますね」
「お気の毒さま」と美禰子が言った。
 原口さんは返事もせずにまた画面へ近寄った。「それでね、細君のお尻《しり》が離縁するにはあ
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