痰ネいよと断わられた。なるほど三四郎にもどこが名文だかよくわからない。ただ句切りが悪くって、字づかいが異様で、言葉《ことば》の運び方が重苦しくって、まるで古いお寺を見るような心持ちがしただけである。この一節だけ読むにも道程《みちのり》にすると、三、四町もかかった。しかもはっきりとはしない。
贏《か》ちえたところは物|寂《さ》びている。奈良《なら》の大仏の鐘をついて、そのなごりの響が、東京にいる自分の耳にかすかに届いたと同じことである。三四郎はこの一節のもたらす意味よりも、その意味の上に這《は》いかかる情緒の影をうれしがった。三四郎は切実に生死の問題を考えたことのない男である。考えるには、青春の血が、あまりに暖かすぎる。目の前には眉《まゆ》を焦がすほどな大きな火が燃えている。その感じが、真の自分である。三四郎はこれから曙町《あけぼのちょう》の原口の所へ行く。
子供の葬式が来た。羽織を着た男がたった二人ついている。小さい棺はまっ白な布で巻いてある。そのそばにきれいな風車《かざぐるま》を結《ゆ》いつけた。車がしきりに回る。車の羽弁《はね》が五色《ごしき》に塗ってある。それが一色《いっしき》になって回る。白い棺はきれいな風車を絶え間なく動かして、三四郎の横を通り越した。三四郎は美しい弔いだと思った。
三四郎は人の文章と、人の葬式をよそから見た。もしだれか来て、ついでに美禰子をよそから見ろと注意したら、三四郎は驚いたに違いない。三四郎は美禰子をよそから見ることができないような目になっている。第一よそもよそでないもそんな区別はまるで意識していない。ただ事実として、ひとの死に対しては、美しい穏やかな味わいがあるとともに、生きている美禰子に対しては、美しい享楽《きょうらく》の底に、一種の苦悶《くもん》がある。三四郎はこの苦悶を払おうとして、まっすぐに進んで行く。進んで行けば苦悶がとれるように思う。苦悶をとるために一足わきへのくことは夢にも案じえない。これを案じえない三四郎は、現に遠くから、寂滅《じゃくめつ》の会《え》を文字の上にながめて、夭折《ようせつ》の哀れを、三尺の外に感じたのである。しかも、悲しいはずのところを、快くながめて、美しく感じたのである。
曙町へ曲がると大きな松がある。この松を目標《めじるし》に来いと教わった。松の下へ来ると、家が違っている。向こうを見るとまた松がある。その先にも松がある。松がたくさんある。三四郎は好い所だと思った。多くの松を通り越して左へ折れると、生垣《いけがき》にきれいな門がある。はたして原口という標札が出ていた。その標札は木理《もくめ》の込んだ黒っぽい板に、緑の油で名前を派手《はで》に書いたものである。字だか模様だかわからないくらい凝っている。門から玄関まではからりとしてなんにもない。左右に芝が植えてある。
玄関には美禰子の下駄《げた》がそろえてあった。鼻緒の二本が右左《みぎひだり》で色が違う。それでよく覚えている。今仕事中だが、よければ上がれと言う小女《こおんな》の取次ぎについて、画室へはいった。広い部屋《へや》である。細長く南北《みなみきた》にのびた床の上は、画家らしく、取り乱れている。まず一部分には絨毯《じゅうたん》が敷いてある。それが部屋の大きさに比べると、まるで釣り合いが取れないから、敷物として敷いたというよりは、色のいい、模様の雅な織物としてほうり出したように見える。離れて向こうに置いた大きな虎《とら》の皮もそのとおり、すわるための、設けの座とは受け取れない。絨毯とは不調和な位置に筋《すじ》かいに尾を長くひいている。砂を練り固めたような大きな甕《かめ》がある。その中から矢が二本出ている。鼠色《ねずみいろ》の羽根と羽根の間が金箔《きんぱく》で強く光る。そのそばに鎧《よろい》もあった。三四郎は卯《う》の花縅《はなおど》しというのだろうと思った。向こう側のすみにぱっと目を射るものがある。紫の裾模様の小袖《こそで》に金糸《きんし》の刺繍《ぬい》が見える。袖から袖へ幔幕《まんまく》の綱《つな》を通して、虫干の時のように釣るした。袖は丸くて短かい。これが元禄《げんろく》かと三四郎も気がついた。そのほかには絵がたくさんある。壁にかけたのばかりでも大小合わせるとよほどになる。額縁《がくぶち》をつけない下絵というようなものは、重ねて巻いた端《はし》が、巻きくずれて、小口《こぐち》をしだらなくあらわした。
描かれつつある人の肖像は、この彩色《いろどり》の目を乱す間にある。描かれつつある人は、突き当りの正面に団扇《うちわ》をかざして立った。描く男は丸い背をぐるりと返して、パレットを持ったまま、三四郎に向かった。口に太いパイプをくわえている。
「やって来たね」と言ってパイプを口から取って、小さい丸テーブル
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