セと教えてくれた。三四郎は肉汁《ソップ》を吸いながら、まるで兵児帯《へこおび》の結び目のようだと考えた。そのうち談話がだんだん始まった。与次郎はビールを飲む。いつものように口をきかない。さすがの男もきょうは少々|謹《つつし》んでいるとみえる。三四郎が、小さな声で、
「ちと、ダーターファブラをやらないか」と言うと、「きょうはいけない」と答えたが、すぐ横を向いて、隣の男と話を始めた。あなたの、あの論文を拝見して、大いに利益を得ましたとかなんとか礼を述べている。ところがその論文は、彼が自分の前で、さかんに罵倒《ばとう》したものだから、三四郎にはすこぶる不思議の思いがある。与次郎はまたこっちを向いた。
「その羽織はなかなかりっぱだ。よく似合う」と白い紋をことさら注意してながめている。その時向こうの端《はじ》から、原口さんが、野々宮に話しかけた。元来が大きな声の人だから、遠くで応対するにはつごうがいい。今まで向かい合わせに言葉をかわしていた広田先生と庄司という教授は、二人の応答を途中でさえぎることを恐れて、談話をやめた。その他の人もみんな黙った。会の中心点がはじめてできあがった。
「野々宮さん光線の圧力の試験はもう済みましたか」
「いや、まだなかなかだ」
「ずいぶん手数《てすう》がかかるもんだね。我々の職業も根気仕事だが、君のほうはもっと激しいようだ」
「絵はインスピレーションですぐかけるからいいが、物理の実験はそううまくはいかない」
「インスピレーションには辟易《へきえき》する。この夏ある所を通ったらばあさんが二人で問答をしていた。聞いてみると梅雨《つゆ》はもう明けたんだろうか、どうだろうかという研究なんだが、一人《ひとり》のばあさんが、昔は雷さえ鳴れば梅雨は明けるにきまっていたが、近ごろじゃそうはいかないとこぼしている。すると一人がどうしてどうして、雷ぐらいで明けることじゃありゃしないと憤慨していた。――絵もそのとおり、今の絵はインスピレーションぐらいでかけることじゃありゃしない。ねえ田村《たむら》さん、小説だって、そうだろう」
 隣に田村という小説家がすわっていた。この男は自分のインスピレーションは原稿の催促以外になんにもないと答えたので、大笑いになった。田村は、それから改まって、野々宮さんに、光線に圧力があるものか、あれば、どうして試験するかと聞きだした。野々宮さんの答はおもしろかった。――
 雲母《マイカ》か何かで、十六武蔵《じゅうろくむさし》ぐらいの大きさの薄い円盤を作って、水晶《すいしょう》の糸で釣るして、真空《しんくう》のうちに置いて、この円盤の面《めん》へ弧光燈《アークとう》の光を直角にあてると、この円盤が光に圧《お》されて動く。と言うのである。
 一座は耳を傾けて聞いていた。なかにも三四郎は腹のなかで、あの福神漬《ふくじんづけ》の缶《かん》のなかに、そんな装置がしてあるのだろうと、上京のさい、望遠鏡で驚かされた昔を思い出した。
「君、水晶の糸があるのか」と小さい声で与次郎に聞いてみた。与次郎は頭を振っている。
「野々宮さん、水晶の糸がありますか」
「ええ、水晶の粉《こ》をね。酸水素|吹管《すいかん》の炎で溶かしておいて、両方の手で、左右へ引っ張ると細い糸ができるのです」
 三四郎は「そうですか」と言ったぎり、引っ込んだ。今度は野々宮さんの隣にいる縞の羽織の批評家が口を出した。
「我々はそういう方面へかけると、全然無学なんですが、はじめはどうして気がついたものでしょうな」
「理論上はマクスウェル以来予想されていたのですが、それをレベデフという人がはじめて実験で証明したのです。近ごろあの彗星《すいせい》の尾が、太陽の方へ引きつけられべきはずであるのに、出るたびにいつでも反対の方角になびくのは光の圧力で吹き飛ばされるんじゃなかろうかと思いついた人もあるくらいです」
 批評家はだいぶ感心したらしい。
「思いつきもおもしろいが、第一大きくていいですね」と言った。
「大きいばかりじゃない、罪がなくって愉快だ」と広田先生が言った。
「それでその思いつきがはずれたら、なお罪がなくっていい」と原口さんが笑っている。
「いや、どうもあたっているらしい。光線の圧力は半径の二乗に比例するが、引力のほうは半径の三乗に比例するんだから、物が小さくなればなるほど引力のほうが負けて、光線の圧力が強くなる。もし彗星の尾が非常に細かい小片《パーチクル》からできているとすれば、どうしても太陽とは反対の方へ吹き飛ばされるわけだ」
 野々宮は、ついまじめになった。すると原口が例の調子で、
「罪がない代りに、たいへん計算がめんどうになってきた。やっぱり一利一害だ」と言った。この一言《いちごん》で、人々はもとのとおりビールの気分に復した。広田先生が、こんな事を言
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