黷ナいいです」
「なぜ悪いの?」
「だからいいです」
女は顔をそむけた。二人とも戸口の方へ歩いて来た。戸口を出る拍子《ひょうし》に互いの肩が触れた。男は急に汽車で乗り合わした女を思い出した。美禰子の肉に触れたところが、夢にうずくような心持ちがした。
「ほんとうにいいの?」と美禰子が小さい声で聞いた。向こうから二、三人連の観覧者が来る。
「ともかく出ましょう」と三四郎が言った。下足《げそく》を受け取って、出ると戸外は雨だ。
「精養軒へ行きますか」
美禰子は答えなかった。雨のなかをぬれながら、博物館前の広い原のなかに立った。さいわい雨は今降りだしたばかりである。そのうえ激しくはない。女は雨のなかに立って、見回しながら、向こうの森をさした。
「あの木の陰へはいりましょう」
少し待てばやみそうである。二人は大きな杉の下にはいった。雨を防ぐにはつごうのよくない木である。けれども二人とも動かない。ぬれても立っている。二人とも寒くなった。女が「小川さん」と言う。男は八の字を寄せて、空を見ていた顔を女の方へ向けた。
「悪くって? さっきのこと」
「いいです」
「だって」と言いながら、寄って来た。「私、なぜだか、ああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」
女は瞳《ひとみ》を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。――必竟《ひっきょう》あなたのためにした事じゃありませんかと、二重瞼《ふたえまぶた》の奥で訴えている。三四郎は、もう一ぺん、
「だから、いいです」と答えた。
雨はだんだん濃くなった。雫《しずく》の落ちない場所はわずかしかない。二人はだんだん一つ所へかたまってきた。肩と肩とすれ合うくらいにして立ちすくんでいた。雨の音のなかで、美禰子が、
「さっきのお金をお使いなさい」と言った。
「借りましょう。要《い》るだけ」と答えた。
「みんな、お使いなさい」と言った。
九
与次郎が勧めるので、三四郎はとうとう精養軒の会へ出た。その時三四郎は黒い紬《つむぎ》の羽織を着た。この羽織は、三輪田のお光さんのおっかさんが織ってくれたのを、紋付《もんつき》に染めて、お光さんが縫い上げたものだと、母の手紙に長い説明がある。小包みが届いた時、いちおう着てみて、おもしろくないから、戸棚《とだな》へ入れておいた。それを与次郎が、もったいないからぜひ着ろ着ろと言う。三四郎が着なければ、自分が持っていって着そうな勢いであったから、つい着る気になった。着てみると悪くはないようだ。
三四郎はこのいでたちで、与次郎と二人《ふたり》で精養軒の玄関に立っていた。与次郎の説によると、お客はこうして迎えべきものだそうだ。三四郎はそんなこととは知らなかった。第一自分がお客のつもりでいた。こうなると、紬の羽織ではなんだか安っぽい受け付けの気がする。制服を着てくればよかったと思った。そのうち会員がだんだん来る。与次郎は来る人をつらまえてきっとなんとか話をする。ことごとく旧知のようにあしらっている。お客が帽子と外套《がいとう》を給仕に渡して、広い梯子段《はしごだん》の横を、暗い廊下の方へ折れると、三四郎に向かって、今のは誰某《だれそれがし》だと教えてくれる。三四郎はおかげで知名な人の顔をだいぶ覚えた。
そのうちお客はほぼ集まった。約三十人足らずである。広田先生もいる。野々宮さんもいる。――これは理学者だけれども、絵や文学が好きだからというので、原口さんが、むりに引っ張り出したのだそうだ。原口さんはむろんいる。いちばんさきへ来て、世話を焼いたり、愛嬌《あいきょう》を振りまいたり、フランス式の髯《ひげ》をつまんでみたり、万事忙しそうである。
やがて着席となった。めいめいかってな所へすわる。譲る者もなければ、争う者もない。そのうちでも広田先生はのろいにも似合わずいちばんに腰をおろしてしまった。ただ与次郎と三四郎だけがいっしょになって、入口に近く座を占めた。その他はことごとく偶然の向かい合わせ、隣同志であった。
野々宮さんと広田先生のあいだに縞《しま》の羽織を着た批評家がすわった。向こうには庄司《しょうじ》という博士が座に着いた。これは与次郎のいわゆる文科で有力な教授である。フロックを着た品格のある男であった。髪を普通の倍以上長くしている。それが電燈の光で、黒く渦《うず》をまいて見える。広田先生の坊主頭《ぼうずあたま》と比べるとだいぶ相違がある。原口さんはだいぶ離れて席を取った。あちらの角《かど》だから、遠く三四郎と真向かいになる。折襟《おりえり》に、幅の広い黒襦子《くろじゅす》を結んださきがぱっと開いて胸いっぱいになっている。与次郎が、フランスの画工《アーチスト》は、みんなああいう襟飾りを着けるもの
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